あるがままに見る 【京都新聞「現代のことば」 #2】
初出:京都新聞夕刊1面、「現代のことば」、2024年10月21日
今年の夏、初めて西表島に行く機会があった。同僚のカニの調査の手伝いで、これまでアフリカの森の中でチンパンジーを追いかけてきた身としては、いきなり日差しを遮るものがない干潟や浜辺に放り出された格好である。
調査の手伝いと言っても、初心者にできることは限られている。まずヤドカリやミナミコメツキガニを探しに行った。
ヤドカリは砂浜で動いていれば見つけやすいが、じっとしているときはヤドカリの背負った貝殻と空っぽの貝を見分けるのは難しい。同僚に見つけるコツを聞くと「よく見ることです」とにべもない。目を皿のようにして探して歩くのだが、思ったようには見つからない。
干潟で大きな群れでうごめいているミナミコメツキガニは、さすがに見つけるのはたやすい。しかし近づこうとすると、危険を感知したミナミコメツキガニたちはすぐにずぶずぶと干潟の砂泥の中に潜り込んで隠れてしまう。「潜る前にカニがいた場所をよく見て覚えてください」と言うは易し。おびただしい数のカニが泥に潜り込む前にどこにいたのかを「見て覚える」ことなど、そう簡単にできることではない。
私もアフリカの森でチンパンジーの調査を通して「よく見る」ことの難しさは痛感してきた。調査を始めた頃は、地面に残っているはずのチンパンジーの足跡がまったく見えず、わずかな土の表面の起伏がチンパンジーの足跡として像を結ぶにはかなりの時間を要した。チンパンジーが樹上を見上げた先に、彼らの食物となる果実をすぐに見つけられるようになるまでには、チンパンジーと共に過ごすそれなりに長く濃密な時間が必要だった。
「そこにある何かを見る」ことはいとも簡単にできると思いがちだ。見るべき対象は「そこにある」のだから。しかし、そこにあるものが見えるようになるには、探索と発見の経験を積み重ねることで、自分自身を変容させる必要がある。動物の世界をあるがままに見るために、動物研究者は動物たちと生活を共にすることで、自らの身体や感覚を「人間の彼方」へと拡張しようとしている。
2021年から、黒田末壽と共に<新・動物記>シリーズ(京都大学学術出版会)を編集してきた。動物研究の現場での困難や苦労、さまざまな工夫を重ねて見えてきた新たな動物の姿、動物を追いかける経験を通した研究者たちの成長をていねいに描き、一冊の本にまとめている。この10月にはシリーズ第10巻『密かにヒメイカ』(佐藤成祥著)が刊行される。
動物を「あるがままに見る」ためのさまざまな工夫や、それまで見えなかったものが見えるようになるプロセスは、私たちがよく知っているはずの身近な人や、当たり前だと思い込んでいた日常の暮らしにも、新たな視角を与えてくれると思う。
「見えてはいるが、誰も見ていないものを見えるようにするのが、詩だ」と詩人の長田弘は言う。「見えてはいるが、誰も見ていない」動物の世界を見えるようにする動物研究者の仕事は、詩人に似ているのかもしれない。
(京都大研究員、京都工芸繊維大研究員、人類学、人類学、「現代のことば」2024年10月21日夕刊掲載)
元記事はこちら。
動物研究者の自伝シリーズ <新・動物記> を編集しています。