境港滞在記(美保関・境港編)
旅の最終日は対岸の美保関に行く、というのは事前に決めていたことだった。陸の切れるところに惹かれるわたしにとって、先端というのはその最たるものであり、境港という弓ヶ浜半島の先端から美保関という島根半島の先端へ行くというのは、旅のクライマックスとしてこのうえないことだった。
それに青石畳通りや美保神社には行っておきたかった。
青石畳通りは、江戸時代後期に石が敷かれ、雨が降ると青く見えるというのでこの名がついたらしい。水木さんは“ベビィの頃”、巨大な石が敷かれているのを見てたいへん驚いたという。門前町であり風待ち港であった美保関は、中世から近世にかけ大変な賑わいだったといい、青石畳通りはその頃の面影を残しているというわけだ。
美保神社のご祭神は三穂津姫命(ミホツヒメノミコト)と事代主神(コトシロヌシノカミ)で、美保の地名はこのミホツヒメに由来するとも伝えられる。また「えびすだいこく両参り」と言って、大黒様として知られるオオクニヌシの出雲大社と、えびす様として知られるコトシロヌシの美保神社、両方をお参りするのがよりよいともされている。父であるオオクニヌシが稲佐の浜で国譲りを迫られたとき、美保関で釣りをしていた息子、コトシロヌシを大急ぎで呼びにやったというのも、この地をいっそう興味深くさせる話だ。この呼びにやった船というのが諸手船(もろたぶね)で、この場面を再現したのが毎年12月3日に行われる諸手船神事であり、コトシロヌシが国譲りを承諾し、海中に青柴垣(あおふしがき)を作ってその中に身を隠した場面を再現したのが4月7日の青柴垣神事である。2008年、水木さんはこの青柴垣神事に来られている。
前夜、出雲へ行った3日目の夜、それまでガイドブックや地域の観光サイトなどで情報を得ていたのだが、初めて美保神社の公式HPを見つけ、開いた。〈七日えびす祭〉の文字が目に飛び込んできた。
(7日って……明日じゃないか! )
美保神社の御縁日は7日なのだと、行く前夜になって初めて知ったのだった。
〈月次祭(つきなみさい)毎月7日の御縁日、神恩に感謝し国家の安泰と氏子崇敬者国民の弥栄を祈る御祭で(中略) 拝殿外よりご自由に拝観ください〉
とあるが、具体的にどんなものかはよくわからない。ご自由に拝観、ということはとにかく何かが見られるはずだ。
他にもこの日限定の魅力的な諸々が案内されていたが、わたしが特に前のめりになったのは〈7日のみ 50体限定 金色の鯛守〉だった。
もともとお守りは楽しみにしていた。白地に青い波と飛び跳ねた赤い鯛がデザインされている、えびす様と言えばの鯛のお守りだ。この限定の〈金色の鯛守〉は同じ絵柄だが白地に金色一色になっているようだ。11時に30体、13時に20体、先着順ではなく、希望者が多い場合「みくじ」により授与者を決定するという。みくじ! まあおそらくは「みくじ」になるのだろうと予感するが、たまたまこの日に行けるという巡り合わせ、11時の機会にひとつ運試しをしてみることにした。
美保神社へはコミュニティバスを乗り継いで、境港駅から宇井渡船場、宇井渡船場から美保関、というふうに行く。2日目、松江からの帰路に万原ターミナルから虹のジャーニーに乗って宇井渡船場で降りたが、そのまま乗っていたら美保関へ行く。バスに残った親切な女性と3人の高校生は美保関の住人なのだろうか。未踏の先端におもいを馳せる。
名残惜しくチェックアウトを済ませ、境港駅前からバスに乗る。スーツケースを引く女性や、一眼レフを首から下げた男性ら観光客らしき人が目につき、
「美保神社まで」
などと運転手さんに告げている。これはおもった以上に〈七日えびす祭〉、そして〈金色の鯛守〉恐るべしなのではないか。
「宇井渡船場で乗り換えです」
運転手さんはこの地に慣れない人に慣れている様子だし、7日に対する心構えもできている様子だ。
それにしてもよく晴れた暑い朝で、境水道大橋からの景色はまたいっそうの爽快さがあった。
宇井渡船場で乗り換えた美保関行きのバスにはすでにそれなりに人が乗っており、乗り換えのわたしたちが乗り込むとほとんど満席になった。滞在4日目のよそ者ではあるが、この盛況ぶりはやはり普通でないように思えた。窓側で境水道を眺めたかったが叶わず、通路側に座った。
左手には山が迫り、右手は水際を行く道路だ。先ほど渡った境水道大橋のたもとをまた過ぎると、境水道はしだいに“水道”ではなくなってゆく。あれは海鵜だろうか、海鳥が群れをなし、とまり木のような小島に降り立ちごった返している。対岸の境港側は生活の感じられる町並みから一転、“重点港湾”の様相を強め、先端の灯台を越えて完全な海になった。境港が切れた! こちら側だけ取り残された! 友と別れ孤独に海に浮かんでいるような心許なさで、それでも先端を目指して行く。
終点の美保関まで行くつもりでいたのが、ひとつ手前の美保神社入口というところで運転手さんが、
「美保神社へ行かれる方はこちらです、この道をまっすぐ行くとすぐ鳥居です。帰りのバスは郵便局の前から出ますのでご注意ください」
と親切に呼びかけてくれたので、みんなぞろぞろ降りてわたしも降りた。やはり運転手さんの7日への心構えは並ではない。
言われた道は海辺から一本裏の道だ。その短い道のりを行くあいだは、この先に美保神社がある予感というのはまるでないのだが、運転手さんは嘘はつかないので、まもなく石の鳥居のある広場のようなところに出た。
鳥居の両脇には〈七日えびす祭〉の幟の鮮やかな青、脇に建つ〈観光センター〉の文字の薄い青、青石畳通りの入り口に下がる提灯の〈萬来深謝〉の深い青。度重なる青は偶然か必然か。青石畳通りや青柴垣神事にちなんでいたりするのだろうか。
まだ神社の姿はほとんど見えていないのだが、にわかに、ふつふつと、心が沸き立ってゆくのがわかった。しかし実際何がそうさせるのか、正体がよくわからなかった。この広場のどこか懐かしい雰囲気がそうさせる、と言ってみるのは簡単だし個人の素朴な感想としてはたぶん間違ってはいない。が、その実何も語ってはいない気がした。懐かしいと言ったって、わたしがここに来るのは初めてでむしろ新鮮さで溢れている。
ともかくも、美保神社へまず向かう。
二の鳥居をくぐって少し段を上って進むと手水舎があり、また少し段を上る。いつからか笛や太鼓が耳に届いていた。きっと拝殿で行われている何かだ。聴きながら、さらなる段の上にある神門の立派なしめ縄を見上げた。そして左手の社務所のほうへ行き、入り口中央にきちんと揃えてある草履のえもいわれぬ佇まいをしばらく見つめていた。なんと美しいのだろう。そして気がすむとまた神門のしめ縄を見上げた。神門をくぐることを勿体ぶっていたようでもあるが、どういう心理だろう。
ようやく段を上り神門をくぐると、正面に周囲が柱だけで壁のない開放的な拝殿があり、中で巫女が舞っているのが見えてきた。上が白で下が赤、おなじみの姿の巫女さんだ。脇では烏帽子をかぶった男性陣が笛や太鼓を鳴らしていて、手前では控えめできちんとした装いの白髪の女性が頭を垂れている。ご祈祷を受けているのだ。
そっと参拝をして、脇に下がって遠巻きに見つめた。美保神社のご祭神、ミホツヒメとコトシロヌシは音楽の好きな神様なのだ。この壁のない拝殿は舞台のようであり、ぐるりと山に囲まれた秘密の野外音楽堂のようでもある。
日差しは一層強くなり、人々は口々に暑い暑いと言っている。暑がりのわたしも当然暑いのだが、神門と一体になった屋根つきの回廊の腰掛けは軒並みいっぱいになっている。日傘を差し拝殿の周囲を、出雲大社のときと同じように反時計回りにめぐってみる。
拝殿のうしろには大社造の屋根が並列しているが、これは向かって右側がミホツヒメ、左側がコトシロヌシを祀っており、その間を装束の間で繋いだ〈美保造〉または〈比翼大社造〉という特殊な形式だという。
表に戻ってくると、たくさんの絵馬が掛かっているのが目に入ったが、よくよく見るとこちらも普通と違っている。絵馬の絵柄もえびす様と言えばの鯛なのだが、それだけにとどまらず、それを吊るしているのが竹の釣竿なのだ! 稲穂をくわえた鯛を釣り上げているかたち! コトシロヌシの叶える大漁満足や商売繁盛を見事かたちにしている。くわえた稲穂は、ミホツヒメの五穀豊穣を表しているらしい、というのは後で知ったが。
11時が近づいてくるにつれ、着実に人が増えてきた。30人などとっくに超えている、というかわたしが到着した時にはすでに30人くらいいたとおもう。境内はざわめき、どこかギラついてさえいた。呼びかけが始まると、先着順ではないというのに人々がどっと押し寄せ、囲まれた浅葱の袴の方は気圧されて後じさりたいのをぐっと堪えたようにも見えた、というのはおもい過ごしだろうか。当然、希望者多数で「みくじ」の番号札が1枚1枚配られたが、その列に割り込むグループもあった。集団だからと言ってそんなに怖いものなしになれるものだろうか、しかも神社の境内で。回廊に掲げられた巨大な般若も見ているとおもうのだが。心がささくれ立ちかけたが、番号札を手渡されたときの、
「ようこそお参りくださいました」
の誠実な響きによって水に流された。
〈みくじ〉の結果は30分後に貼り出されるというので、周辺を歩いてみることにした。神門を出て、来た道を逆さに辿ってゆくと、海を見下ろすかたちになりはっとした。鳥居の広場の先はすぐ港だった。来たときは振り向かなかったから気づかなかった。あのときわたしは背中に海を背負っていたのか。そして美保神社は少しだけ高いところから港を見守っているのか。
〈萬来深謝〉の提灯をくぐる。青石畳通りである。道幅は細く、両脇に旅館や商店などが静かに並ぶ。長きにわたり人々の足あるいは荷車などに削られ、雨に磨かれてきたであろう石のまろやかな感触というのは、底の厚めのスニーカーであっても心地よい。ひとつひとつの石はなるほど大きいには大きいが、“ベビィの頃”の水木さんには一層大きく見えたのだろう。港側は建物の1階が港に向けて空間が抜けていたり、細い通路があったりして、港への近道がたくさんあった。
道が右手に折れ、細い道幅は変わらぬままに両脇は民家になった。境港や出雲でも感じたことだが、きちんと手入れされた色とりどりの鉢植えで古い家屋のまわりを飾る光景は、わたしにとって愛すべき、また頭の下がる心意気だった。先ほどの草履にも通じるものがあった。やられている方々はほとんど無意識なのかもしれないが、生活の中の美学は無意識のうちに現れる。
海に面した通りに出ると、おもった以上にたくさん歩いてきたのがわかった。港はぐるりとえぐれているから、先ほどの鳥居のあたりはやや海越しに見えるような地点まで来ていた。港には漁船や漁具が並んでいて、見慣れぬそれらを立ち止まってしみじみ眺め、そんなストレンジャーを近所のご婦人が見ていた。気づけばもう30分が過ぎている。「みくじ」の結果を見に向かう。
期待はしていなかった。もともと何事にも期待しないようにしているし。この日にたまたま来られたことがすでになかなかの確率で、これで〈金色の鯛守〉まで当たったらすべての運を使い果たしてしまうようでなんだか怖い。とはいえ当たらないより当たったほうが嬉しいに決まっている。
が、回廊の柱に貼り出されている紙を見つけて近づき、ものの数秒で“ハズレ”であったことを了解した。あっけない。
(そりゃそうだ、そんなに上手くいくわけないし、大丈夫、今日ここに来られただけでわたしは十分)
とは言えもし、あのグループのせいでハズレなのだとしたら胸くそ悪いので、割り込んだ人数を遡ってみたが、それでも同じ結果だったのでほっとした。ここまで来て人を恨むのは面倒くさい。巨大な般若も見ているのだし。
授与所は当たった人と、わたしのようにハズレだったが別のものを授かりたい人とが殺到し、一気にごった返す。
通常の鯛守を手に取りながら隣の見知らぬ女性と、
「なかなか買えませんねえ」
「ですねえ」
と、ハズレの者どうし呑気な言葉を交わすのもまた楽しかった。
ようやく買えた鯛守、白地に青い波と赤い鯛、この色合いがやはり好きだなあとおもうのだ、負け惜しみではなしに。人の引いた境内では、次の御祈祷が始まる合図の太鼓が響いた。
神社を出て、一の鳥居の広場のテントを覗いた。地元の年配のご婦人方がずらり並んでパックに入った味つきご飯やお惣菜を売っていた。アクリル毛糸で編んだ鯛のモチーフなども並んでいる。すべて手作りで持ち寄っているようだ。
「お一人様ですか?」
ご婦人のひとりが問う。毎月のこの日を、住民や旅の人と話すのを楽しみにしているという思いが惜しみなく溢れ出ている笑顔であった。その邪念のなさにわたしも自然と笑顔になった。テントの奥、例の〈観光センター〉の一階が自動販売機の並ぶ開け放しの休憩所になっているようなので、
「あそこで食べていいんですか?」
と確認する。
「もちろんです!」
再び満面の笑みであった。
ランチタイムを過ぎてしまったがために松江で食べそびれたカツライスにここで出合いなおす。
開け放たれているから暑いには暑いが、屋根が日差しを遮ってくれるし、目の前には井戸があって、小学校中学年くらいだろうか、女の子がひとり水遊びをしているのがいかにも涼しげだった。テントのご婦人方のひとりが度々声をかけているから、お孫さんなのかもしれない。食べながら、わたしがずっと微笑ましく井戸遊びを見ているので、女の子もわたしを意識して遊ぶ。どこからかキッチンペーパーを持ってきて濡らしてみせたり、あれこれ見せようとする。それがなんとも可愛い。
それにしてもここ美保関も境港もやたらと井戸が多い。水木しげるロードにも井戸があり、子供が遊んでいた。
休憩所の中では地元の人らしき中年女性が、テントの海鮮ちらしのフタを開け、
「ごちそうだ!」
と歓声をあげた。
「終わりのほうは80何番だったみたい」
例の「みくじ」の話ではないか。老婦人と話している。限定30体のところを80人以上来たわけだ。
「わたしはね、青柴垣神事のときに当たったからもういいの、十分だから、他の方にね」
すてきな心意気。そして青柴垣神事は4月7日だから、そうか、御縁日でもあるのだ。その日この港町が一体どのような雰囲気に包まれるのか、畏れ多いが体感してみたくもある。
だんだんと最初にこの広場でわたしの心をふつふつと沸き立たせたものの正体がわかってきたような気がした。ここでは住民と神事と自然とが一体となっているのだ。融合と言っていいほどに。そういう場所のあることは知識としては知っていた、知ってはいたのだが。
さて、わたしにはもう一ヶ所、行きたいところがあった。美保関灯台だ。こここそが、島根半島の先端なのだ。美保神社のあるこの辺りは、公共交通機関の終点にはなっているが、実のところまだ先端ではない。美保関灯台まではここから徒歩30分という情報があった。つまり往復1時間、楽ではないが可能ではある。この暑さは想定外であったが、それでもここまで来て本当の先端に挑戦しないというのは心残りになる。
港の切れるところまで来るとそこからはなんというか、人が歩くようには想定されていない道のようにおもえた。歩道が極端に狭く、右手は広大な海、左手は山、おまけに上り坂だ。早くも心が折れそうになったが、行けるところまででも行こうと気合いを入れた。海の向こうに霞みながらも大山が見え、景色だけが励みになった。ふと岸壁の下を見下ろすとウニがゴロゴロいた! ナマコもいた!
どんどん上って汗が吹き出し、海面は遠くなって、もうウニがいても確認できないくらいに高くなった。歩いているのはわたしだけ、車もたまにしか通らない。心細さと疲労に苛まれながら一度立ち止まり、望洋とした海を眺めた。なんだか遠くから轟音が近づいてくる。船かとおもったら、2機の飛行機が境港方面から飛んできた。小さいし2機連隊だから自衛隊機だろう。米子鬼太郎空港は美保基地と一緒になっているのだ。
飛行機を見送ると、今度は先端のほうから白い船が現れた。だいぶ遠くではあったけれども、他の船よりどうも大きいような気がする。あっ、船体に、鬼太郎! 鬼太郎フェリーが隠岐から帰ってきたのだ! 大山の稜線を、あちらからこちらへと行き過ぎる。わたしはそれを追って、必死で上ってきた道を惜しげもなく駆け下りた、できる限り近い距離で見送りたい思いで。フェリーは港に差し掛かると、〈ぶあぁーーーぁん〉と挨拶をして境水道のほうへ消えていった。
何度途中で引き返そうとおもったか知れない。まだこれしか進んでいないのかと、地図を見て肩を落とすばかりだった。途中出会った人間は、法面の調査に来ていた土木関係の人たった1人で、それだって当然ながら車で来て下車しているのであって、歩いて上ろうなんていう人は誰もいやしない。景色だけが励みだったが、ついに海も木々に遮られ、鬱蒼とした茂みの中で知らない鳥が鳴いている。虚な気持ちでとぼとぼ歩いているとき、背中のすぐそばに何ものかの気配を感じたが、べつに怖くもなかった。べとべとさんくらいいたって、なんら不思議ではない、いるだろうなあ、そういう感覚だった。むしろ追い越す車の人たちがわたしを見て目を疑ったかもしれない。
(歩いている人間などいるのか? 見てはいけないものを見てしまったのではないのか?)
広大な駐車場に出て、ついに、ついに到着したのだが、帰りのバスの時間を逆算するとここからはもう駆け足だった。駐車場で感動している場合ではない。灯台に併設されたビュッフェレストランは臨時に閉まっていたが、開いていたとしても中に入る余裕はなかったと言える。
展望デッキからは、恐ろしくなるほど果てのない日本海が見えた。半島の尖った先端、陸の果て、これ以上進めないところまで来たのだ。巨大な船の舳先に立ったかのようなこの海の見え方は、わたしにはまったく初めてであった。海は異界であり、ここは境界だ。
この異界の海にポツン、ポツンと浮かぶ美保神社の境外末社、地之御前と沖之御前がある。地之御前は足元に見えるが、沖之御前は約4キロ先で見えづらい。どちらもえびす様が釣りをするという小さな小さな島で、灯台のすぐ下に鳥居がありそこから参拝する。内陸育ちのわたしにとってはただただ度肝を抜かれる境外末社だ。
駐車場には老夫婦や中高年のグループなどがどやどやと乗り降りしている。
(ペーパードライバーのわたしを笑うならどうぞ笑ってください、その代わり笑った人は乗せてください)
と、誰にも笑われてはいないのだがそう心で呟き、意を決して“下山”を始めた。
帰りもやはり歩いている人は誰もおらず、わたしという人間は、半島の先で木々にすっぽり隠されてしまい、誰にも見えぬ、知られぬ存在になったという気がして、
「暑い、眠い、脚痛い」
「今度は下りだから全然平気だもんね」
などと、ひとりで喋り始めた。視界が開け海が見えると黙った。
ウニの見下ろせる辺りまで来ると、道路のフチにパラパラと貝殻が落ちていることに気がついた。上ってくるときは気づかなかった。岸壁はそれなりの高さであるが、波がここまで打ち寄せてくることがあるというなら恐ろしい。貝殻を何枚か拾った。
港までくると、ポツンと木製のベンチが見えたので、ただただ座りたい思いで近づいてゆくと、それが美保関のバス停であった。
境港へ帰ってきた。松江や出雲から帰ってきたときの「ただいま!」という気持ちは、これまでどの旅先でも味わったことがなかった。わたしがそもそも水木ファンであること、人間の生活と妖怪のバランスが好きであること、特徴的な地形であることなど、理由はたくさんあるのだが、最終的には言語化できない肌感覚の部分で自分にとって心地よい町だったのだとおもう。そして美保関から帰ってきて、これが最後の「ただいま!」であることに、心が翳っていた。これから本当に東京に帰るのだろうか。
境港は歩けばどこかしらで猫に出会える町で、飼い猫を亡くして2年のわたしにはたまらないものがあったのだが、水木しげるロードにもどこかの飼い猫か、あるいは地域猫か、黒猫が何匹かいる。少なくとも2匹、昼も夜も妖怪たちと共にある。
これまで一定の距離を保たれてきて触れなかったのだが、滞在4日目でついに心を許してくれたのか、
(撫でてもいいよ)
と言ってくれた。このときの猫とわたしの“間合い”というか、言葉はなくとも言葉を交わせたような感覚には、忘れがたい歓びがあった。ますます帰りたくなくなってしまう! しかしもう空港に向けて出発する時間が迫っていた。
水木しげるロードを後にするとき、もう1匹の黒猫が道の脇に佇んでいたので、
(じゃあね、バイバイ)
と心の中で言い、通り過ぎながら首が回りきらなくなるまで見つめた。黒猫もじっとわたしを目で追っていた。
宿でスーツケースを受け取って、ついに境港を後にする。駅員さんに悲しく会釈をしてホームへ進むと、待っていた電車がこれまた鬼太郎シリーズの電車ではなかった! 結局乗れたのは初日のねずみ男列車のみであった。停車中のこなきじじい列車や砂かけばばあ列車は見られたからよしとするけれども。
米子鬼太郎空港へは、かなり余裕をもって到着した、つもりだったが、なんだかバタバタして満喫しきれなかった。先ほどの水木しげるロードで購入したぬりかべクッションに加えて、ここでもしじみや出雲そばなど購入したので、手荷物をまとめるのに苦労したせいもあった。それでもこうして最後まで妖怪たちに見送られるというのは格別なことだった。
慌てて搭乗手続きをしたが、羽田上空混雑のため出発は30分遅れることになった。運命共同体の乗客全員、揃って待ちぼうけとなった。ようやく機内に入って席につくと、オレンジ色に燃えるまん丸の夕日の下、建物に描かれた鬼太郎が照らされていた。わたしの席の側のご婦人が待合室にリュックを忘れたと言ってちょっとした騒ぎになっていたが、ANAスタッフの連携プレーで瞬く間にリュックはご婦人のもとに届けられた。その間もずっと、わたしは鬼太郎を見ていた。
飛行機は轟音とともに斜めに空を上ってゆき、空港を見下ろした。瞬く間に弓ヶ浜半島を北上し、境水道が見え、島根半島の上空へ来た。眼下に“生身の地図”があった。島根半島は本当にそのほとんどが緑色だった。
(あ、あそこが美保関の港!)
(さっきわたしはあの海岸線を縁取って歩いてた! ああ!)
歩いているわたしと見下ろすわたし、2人のわたしがいた。そして美保関灯台の展望デッキに立つわたしを追い越すと、「果てしない」とおもった海が本当に果てしなく広がっていて、じきに海しか見えなくなって、そのうちもう海だか雲だかわからなくなっていった。
〈参考文献〉
『水木しげるの古代出雲』 水木しげる 角川文庫 (2015年)
「水木しげるの異界探訪記』 水木しげる 角川文庫 (2019年)
〈参考サイト〉