ステンレス、愛してた
前述のいただいた3冊のうちの1冊、今井麗『MELODY』(PARCO出版) について。
芸術書を担当していたので、新刊案内のFAXで、A4のコピー用紙に白黒で粗く印刷されたFAXで、この画集が発売されることを知った。日々こうして、膨大な新刊案内が、FAXや封書、または版元営業さんや代行の営業さんから直接手渡されもたらされる。その情報量にくらくらしている部分もあったが、各版元の発売前の情報をこのように一手に掌握できる立場というのも、書店員でなくなった今おもうと、なんという特権だったろう。客観的な情報と、自身の経験と勘で、初回注文数を決めてゆく、というとなんだか高尚に聞こえてしまうかもしれないけれど、要するにほとんど勘だった、わたしのばあい。膨大な量ゆえに、忙しすぎる業務の隙間で1枚の注文書にかけられる時間というのは平均するとどれくらいだったろう、数十秒くらいか。わたしは今井麗さんを知らなかったが、それなりに期待を込めた数をつけ、発売後は特等席の台に長らく積み、こまめに補充し、その後元棚でも面陳し、し続け、辞めるまでし続け、わたしが去った今もきっとまだ面陳されている、気がしている。つまりその半年余り、黄色いクマとはすっかり顔馴染みになっていたのだ。雑誌売り場で今井さんの絵がいくつかの表紙を彩っているのを見つけ、その通路を通るたび見ていないふうで横目で見たり、たまに仕事中コッソリ手に取りぱらぱらとめくって、「ああ、植本一子さんの『かなわない』の表紙のバタートーストの人だったのか!」と、遅まきながら気づいたりした。そんな挙動が背後で伝達、共有されてか、『MELODY』は私の元にやってきた。
今井さんの世界は日常に根ざしていて、日常の上にファンタジーが構築されている。バタートースト、果物、野菜、肉、観葉植物、庭木、アラビアのお皿にマリメッコのクロス、クマ、サル、コアラに、スヌーピー、チャーリー、サリーらのソフトトイたち。片耳のない、ヴィンセントヴァンドッグも。あくまで個人を取り巻くごく私的な世界でありながらも、きっとあらゆる人にとって親しみ深い舞台装置、すぐに感情移入できるモチーフ(こちらには収録されていないけれど、E.T.のPEZが登場する作品には特にうれしくなってしまった、同じものをかつて持っていたから)、それらが、見たこともない表情でこちらに語りかけてくる不思議。ぼわんとした光をまとったようなタッチに、奥の奥まで見極めたくなって、気がつくとこちらがぼわんとさせられているような、唯一無二の世界。
作品に触れたとき、見る側個人の心の底と結びついて、鑑賞が強い個人的体験になって刻まれるということがときどきあって、決してそれはいつも起こることではなく、どちらかというと稀で、しかしそれでも人は忘れてゆくので、その感覚を離さず捉えていたいとおもうので、わたしのばあいは文章にしておこうと考える。文章にしたら、違う何かになってしまいかねないことも承知していながら。
わたしは『MELODY』に登場するステンレスに心震わせた。おそらくキッチンの、ステンレスの調理台。今井さんはここにバタートーストやフルーツののったお皿、お皿を抜きにして直にジャガイモや、ホワイトアスパラガスや、桃や、ラム肉や、スヌーピーや、あらゆるものをのせて描いている。ステンレスには置かれたモチーフがまたぼわんと映っている。わたしはここを執拗に見続ける。現実世界と反転した、底なしの世界を捉えたくて。マントルを超えて、核まで続いているかもしれない、とか。そうだ、わたしはいつもステンレスの台と、そこにに置かれたものと、置かれたもののぼやけた反転がいとしかったのだった。鈍く磨かれ映りこむあちらの世界を愛し、よく写真に撮っていたこと。今井さんの絵によって、過去の愛着が、ありありと息を吹き返した。
ステンレスの調理台は、もう我が家にはない。数年前にキッチンはリフォームされて、人造大理石のようなものが取って代わった。そこにはもう何も映らない。壁のタイルを全部剥がして、油汚れも掃除しやすいつるつるしたパネルにすると既に決定されたことのように言われたとき、リフォームのショールームでわたしは人目も憚らずおもいきり不機嫌になった。心の底から嫌気が差したのだ。その結果、タイルは残された。が、ステンレスの調理台にまで考えが及ばなかったのはなぜだろう。タイルのように目立つ存在ではないからか。だとしたら、一見地味で、当たり前で、意識に登りきらない無自覚な愛情を自覚するにはどうしたらよいのだろう。自分が掌握している(とおもっている)ことなんて、ステンレスの上の野菜だけ、深層への愛に気づいたときにはもう遅かったり。
今井さんの絵は、日常に没入している。わたしたちが普段じっくり見ていないかもしれないもの、見出せないものを見ている。だから深層の世界や無自覚な愛のようなものに気づく手がかりとなって、でも見る側はその感覚が何なのか、俄かにはわからなくて、ただ心震わせ、何だろう、何だろうと、見る者を捉えるのだとおもう。事実わたしも半年あまり、黄色いクマとすれ違うたび問いが投げられ、心に、頭に、積もらせてきたのだった。