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サンリオ・アニメ・ヒストリー 前編

はじめに

皆さんは「サンリオのアニメ」と言えば、一体何を思い浮かべるだろうか。ほとんどの方は、以下に挙げる作品群のいくつかを選ぶであろう。

『おねがいマイメロディ』『ジュエルペット』『ミュークルドリーミー』のようなテレビ東京で放送される女児向けテレビアニメ。あるいは、『SHOW BY ROCK!!』や『サンリオ男子』のようなアニメファンをターゲットにした深夜アニメ。はたまた、サンリオキャラクターの日常生活やサンリオキャラクターが名作童話を演じるOVA(オリジナルビデオアニメ)。

だが、それよりも遥か昔、サンリオが自ら映画事業を設けて、数多くのアニメ映画を作っていたという事実を、どれだけの日本人が知っているだろう。もし、この記事を読んでいるあなたが『マイメロ』以降のサンリオアニメを愛好しているのならば、「いつものサンリオ」を期待してはならない。そこには、「愛」をテーマにした魂を揺さぶる清らかな物語と、なめらかなフルアニメーションによる幻想的・抒情的な世界観が展開されていた。そしてそれには、初代社長・辻信太郎(1927年〜)「ディズニーを越えたい」という壮大な野心があった。

前編では、1970年代から1980年代半ばまで存在した、サンリオ映画部の輪郭と栄枯盛衰を辿っていきたい。はじめに、日本のディズニーを夢見た男・いちごの王さまこと、サンリオ社長・辻信太郎の生い立ちから振り返ってみよう。

サンリオ創立前夜

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辻信太郎は1927年(昭和2年)、旅館・料亭を切り盛りする母親と婿養子の父親との間に、山梨県甲府市で生まれた。実家は五百年続く旧家で、幼い頃から自然に囲まれ、夜空に輝く満天の星を見上げることが大好きな子供だった。幼少期に通っていたカトリック系幼稚園の日曜学校で、教師が人にあげられるモノを貧しい人に配り歩く姿を見て、モノをあげれば喜ばれることを学び、小学校時代に近所の子供に珍しいめんこをあげたところ、その子とすぐに仲良くなる。このギフトの精神がサンリオのルーツとなった。13歳のときに最愛の母親が亡くなると、伯母や父親の親戚から怒鳴られる日々が続いた。その淋しさを紛らわすためか、ギリシャ神話やローマ神話などの世界文学を読みふけり、自分で物語や詩を書くようになる。

1945年(昭和20年)に兵役を避けるために旧制桐生工業専門学校(現・群馬大学工学部)に進学。マルクスやエンゲルスを読み、人間の幸せを論じるインテリ青年として多くの労組から呼び出しがかかり、当時の北関東全域をその勢力下に置いていた学生自治会の二代目委員長を務めた。在学中、学制改革で県内に分散していた専門学校を統合する運動が起き、辻は「総合大学反対」のプラカードを掲げ、学生たちを率いて反対運動を指揮。大学卒業後は闇市で石鹸・焼酎・どぶろく・甘味料を作って販売し大儲けし、統率力と商売のスキルを体得する。その後山梨県庁に就職するが、配属先の保険課徴収係と商工指導員の仕事はとても退屈だったという。そのころ、辻は当時の山梨県知事の選挙の手伝いを引き受ける。知事は当選し、辻は彼の計らいで上京、山梨県庁の東京事務所に勤め始めた。1955年、辻のもとに人生の転機が訪れる。新宿の映画館で、ディズニーの『ファンタジア』を鑑賞したことだった。

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『ファンタジア(1940年)』といえば、『白雪姫(1937年)』に始まるディズニーの長編アニメーション映画の黎明期を代表する作品だ。八曲のクラシック音楽に乗せてさまざまなストーリーの美しいアニメーションが繰り広げられる、言わずと知れたアニメーション史に残る名作である。

本作のシークエンスで最も名高いのは、ミッキーマウスが主演の『魔法使いの弟子』であるが、亜細亜大学短期大学部教授の尾上典子は、辻はベートーベンの『交響曲第六番・田園』を使用したシークエンスに魅了されたのではないかと推測している。『田園』のシークエンスでは、幻想的な世界観に加え、ゼウス、アイリス、ダイアナ、 バッカス、ペガサスなどのギリシャ神話のキャラクターが多数登場。ケンタウロスの少女たちの背伸びするような色気は、サンリオ映画のヒロインたちと通じるものがあるように感じる。

辻は東京事務所において、山梨県の物産を販売する外郭団体の指導・監督を行いつつ、次第に役人より商売人になりたいという思いが強くなり、1960年に独立し、サンリオの前身となる山梨シルクセンターを設立した。当初は絹織物や酒類を販売していたが、取引業者が持っていたいちごの小物を見て、「おっ、かわいいじゃんね」とつぶやいたことから、雑貨にいちごの模様をつけて販売を始める。それをきっかけに、キャラクターグッズやグリーティングカード、詩集などを販売する会社へと転換していった。

日本のディズニーを夢見て

『ファンタジア』を観てからまもない東京事務所時代、辻はウォルト・ディズニーに興味を持ち、暇を見ては調べ始めた。ディズニーの映画製作にかける情熱と経営理念を知れば知るほど、辻はディズニーにのめり込んでいく。「僕もあのような映画を作ってみたい!」、辻の中で、そうした夢が動き始めていた。

会社が大きくなり、社名を「株式会社サンリオ」に改めた1970年代半ば、辻は映画製作に向けて準備を始める。1973年、辻は渡米し、サンフランシスコやニューヨークを転々として、多数のアニメ関係者に話を聞いた。しかし、彼らは「テレビならともかく、劇場用のアニメは金ばかりかかって、絶対儲からない。やめるべきだ。『ファンタジア』すら、ファーストランは赤字で、世界各国への輸出を含めて投資額を回収するのに、長い歳月を費やしていることを知らないのか」と口を揃えて言うばかり。当時はハリウッド映画自体が不況で、日本においてもテレビ普及やレジャーの多様化に押され、映画人口が落ち込んでいた。

辻は専務とともにロサンゼルスのホテルで「なぜあんなにみんなは反対するのだろう。良いものは必ず共鳴されるはずだが、それがだめだというのは、世の中がおかしいからではないか」と話し合ったという。

その翌日、かつて『白雪姫』のスタッフとして働いていた知人のツテを頼りに、バーバンクのディズニープロに足を運んだ。「僕は日本のディズニーです」と自己紹介したところ、「そんなことを言った日本人は、手塚治虫と永田雅一(筆者注:パ・リーグ初代総裁、大映元社長)に次いで君が三番目だ」と返されたという。さらに翌日、ハンナ・バーベラプロダクションで働く日本人アニメーターたちが、「安っぽいアニメづくりにうんざりしている」と嘆いていたのを見て、ディズニーのような本格的なアニメを作ろうと思い立つ。「素晴らしい作品であれば、ディズニーがそうであったように、流行や時代を超えて評価されるはずだ。すぐに元は取れなくても、長い年月をかければ必ず回収されるはずだし、そうした作品を誰かが送り出さなければ、世の中がおかしくなってしまう」、それが辻の持論であった。映画製作においては制作費・配給会社・劇場の確保が必要になるが、銀行からも「映画産業自体が地盤低下しているのに、高コストのアニメ映画は融資対象外だ」と断られるが、辻はそんなことでは諦めず、何度も何度も足を運んだ。それがサンリオ映画部の第一歩となる。

世界への挑戦と『星のオルフェウス』

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品川区五反田にあるTOCビル(筆者撮影)。かつてサンリオが本社を構えており、ここから『シリウスの伝説』や『妖精フローレンス』が生まれた

サンリオ映画の第一作目は『ちいさなジャンボ(1975年)』。1974年頃、辻のところにやなせたかしが「これをアニメーション映画にしよう」と企画を持ち込んだことがきっかけであった。奇妙なタイトルだが、仔ゾウとその飼い主の少年の物語だ。本作の初出はやなせが1969年に出版した『十二の真珠』という短編童話集で、現在の『それいけ!アンパンマン(1988年〜)』の原型と言える初代『アンパンマン』のほか、サンリオ映画でもアニメ化される『バラの花とジョー(1977年)』『チリンの鈴(1978年)』も収録されている。これらの作品には、手塚治虫の旧虫プロダクションに在籍していた波多正美・波多野恒正・山本繁・赤堀幹治・富岡厚司などのスタッフが参加して、経験と実績をつけていった。

辻は1974年7月になると、ロサンゼルスのハリウッドに映画の製作・輸入・配給を扱う「サンリオ・フィルム・コーポレーション」を設立。銀行からの多額の融資を受けて、ハリウッドのアニメーション・センター用のビルを買収、さらにサンセット大通りにてスタジオを作り、ディズニーのスタジオやハンナ・バーベラプロダクションに所属していた一流のアニメーターと、先述の日本人アニメーターを合わせた総勢170名のアニメーターを用意した。外国側のアニメーターたちは、サンリオが声をかけたのではなく、噂を聞いて「使って欲しい」と参加したのだという。この布陣で古代ローマの詩人オウィディウスの叙事詩『メタモルフォセス(変身物語)』を題材にして、ギリシャ神話を原作にしたアニメーション映画『星のオルフェウス(1979年)』を製作する計画を立てる。

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もちろん、その念頭には『ファンタジア』に匹敵する作品を生み出したいという彼の激しい情熱があったからであるが、『ファンタジア』の模倣とされることを恐れてか、ロック音楽とギリシャ神話を合体させるという新機軸を打ち出した。音楽にはローリング・ストーンズ、ジョーン・バエズ、ポインター・シスターズが参加したという。

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六本木のスナックで『愛のファミリー(後述)』のアカデミー賞受賞記念祝賀会を開いたとき、辻が知人に音楽をどうするかを聞いたところ、「ロックがいい。ロック音楽は音楽の世界では古典音楽とも言えるからだ」という答えが返ってきた。次に最近のロック界の第一人者は誰かを問うと、「ローリング・ストーンズのミック・ジャガーだよ」という答えが返ってきた。交渉の結果、辻はミック・ジャガーのマネージャーと対面し、音楽を作ってくれると約束したという。

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チャイニーズ・シアター

日本中がオイル・ショックを引きずり、経済の成長が止まってしまう中、アメリカに外貨(月々数千万、総額二十五億円、現在の価値で六十億円)を送り続けるサンリオを、読売新聞記者の故・西沢正史は「会社の土台が傾く恐れさえある」と評している。こうして完成した映画『星のオルフェウス』は、ハリウッドのチャイニーズ・シアターやウエストウッドのビレッジ劇場などの一流映画館で公開され、日本人のプロデュースした映画がこういう劇場で封切られるのは初めてであった。地元紙は「ディズニーの再来」ともてはやしたという。

ちなみに、現在流通されているDVDでは、ローリング・ストーンズをはじめ有名アーティストの音源はほとんど聞くことができず、ディスコ風の音楽に変更されている。明田川進のインタビューによれば、完成した映像を見たサンリオの専務の「今、日本ではディスコ風の音楽が流行っているから、これではダメだ」という判断で音楽が差し替えられているからだという。明田川は「最初の音楽のまま日本で公開できていたら、すごい価値があったと思います」と振り返るが、筆者自身も同感である。そのこともあってか、日本ではあまりヒットしなかったものの、アメリカで培ったアニメーションのノウハウが、後に五反田のサンリオ映画部のスタジオで活かされることになる。

アカデミー賞を取った!

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ある日のこと、辻は、人気キャラクター・スヌーピーの産みの親、漫画家のチャールズ・シュルツから、「ドキュメンタリーを製作するための出資者を探している」という連絡をもらう。辻とシュルツはそれ以前にも、サンリオでスヌーピーのグッズを販売したり、『いちご新聞』の創刊号の表紙をスヌーピーのぬいぐるみが飾るほどの良好な関係を築いていた。

辻はその企画に1億円を出資して、完成にこぎつけることができた。こうして完成した『愛のファミリー(1977年)』は、アメリカで身体障害児を引き取り育てるデボルト夫妻と、障害と戦いながら自立を目指して懸命に生きていく子供たちの姿を描いたドキュメンタリー。監督のジョン・コーティは、映画を作る上で、哀れを誘う調子や感傷的な描写を避けることを心掛け、ハンディキャップを背負っていることがどんなことかではなく、生きていることがどんなことかを見せたいという思いで撮影に臨んだという。テレビ番組として企画されていたが、辻の出資もあってサンリオ映画として公開され、第50回アカデミー賞(1978年)で長編ドキュメンタリー賞を受賞した。この『愛のファミリー』は長らくソフト化されていなかったが、2013年にDVDとブルーレイがリリースされ、ようやく日の目を見るようになった。

しかし、尾上によれば、辻はアカデミー賞授賞式に出席しなかったそうである。尾上が辻に対してそのことを質問したところ、辻は世俗的栄誉はどうでもよく、アカデミー賞も取るに足りないと思っていたが、オスカー像が送られて大騒ぎになり、首相から官邸に呼び出されたという。尾上によれば、辻は「優れた作品ができて、多くの人々を感動させられればそれが自分の喜びとなる」という信条を抱いていた。続けて、辻は『愛のファミリー』に対してはあくまで出資者である以上、自己の完全な創造性の証であるとは言い切れないため、アカデミー賞の授賞式に臨むことを潔しとしなかったのではないかと推測している。

サンリオ映画・スペシャルガイド

チリンの鈴(1978年) 

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こひつじのチリンと、彼の母親を殺したオオカミのウォーの奇妙な絆を描いた物語。DVDパッケージの可愛らしいひつじとはかけ離れたその救われないストーリーから、サンリオ映画という切り口からではなく、やなせたかしのハードボイルドなダークサイドとして語られることも多い。海外のスタッフが手がけた長編アニメ『親子ねずみの不思議な旅(1978年)』と同時上映され、配給収入6億円のヒットを呼ぶが、当時のアニメ誌によると、観客の間では「ねずみで呼んでチリンで満足してもらった」という話があったという。

くるみ割り人形(1979年)

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チャイコフスキーのバレエ『くるみ割り人形』とホフマンの小説『くるみ割り人形とねずみの王様』をもとに辻が脚色したストップモーションアニメーション。監督と人形アニメは、日本のストップモーションアニメの第一人者である中村武雄と真賀里文子夫妻が担当している。

辻は制作前、渋谷の中華料理店で中村監督・人形劇演出家の清水浩二と対面したとき「この手法による長編映画を作らなければ、もう誰も作り出す人がいない」「あのウォルト・ディズニーも作らなかった(筆者注:ディズニー初のストップモーションアニメとなる『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』は1993年に公開)」という話を聞いて制作に踏み切った。

中村監督曰く、ストップモーションアニメは人形を一コマずつ動かさなければならず、その過程で人形が倒れたり、手足が骨折してしまったら、一からやり直さないといけない。人形を動かすアニメーターだけでなく、カメラマンや照明も必要になるので、チームワークの重要性が求められ、かつ「経験に培われた豊かな技量と繊細な神経、そして強靭な体力と忍耐が必要な」仕事。特に人形アニメーターは「才能、センスなどの資質は勿論のことながら、その上に、様々な撮影現場での経験を積み重ねること」で、〝モノ〟に命を吹き込むことができるという。

ユニコ(1981年)

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自分に愛を注いだ人に幸せを届けるユニコーンの子供・ユニコを主人公にした長編アニメーションの第一弾。原作は手塚治虫で、サンリオの漫画雑誌『リリカ』で連載されていた。原作の「ひとりぼっちのユニコ」と「ほうきにのったネコ」を再構成した物語で、監督は本作が監督デビューとなった平田敏夫。

平田によれば、どのエピソードをアニメ化するかをスタッフ内で話し合ったところ、先述の二つのエピソードのどちらをアニメ化するかでせめぎ合いが起き、「悪魔の子とチャオを一緒に出そう!」という結果になった。平田は二つのエピソードを一本の映画にすることに自信がなかったものの、スタッフがたくさんのアイデアを出し合いながら制作を行ったという。ただ、手塚治虫は原作者として、原作のエピソードをただ並べたことから「物語的に食い足りない」と不満を感じていたという。

シリウスの伝説(1981年)

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アニメ『レディ ジュエルペット(2014年)』の第三話「舞台の上で輝けレディ!」では、レディジュエル候補生たちに「プリンスと一緒に『ロミオとジュリエット』の劇を演じること」という課題が与えられる。本作はその『ロミオとジュリエット』を、14世紀のイタリア・ヴェローナから、妖精たちの幻想的な世界に置き換えた物語。

画面の一枚一枚が手書きで表現されたキャラクターのなめらかな動きは、ハンドトレス(紙に描いた絵をセルに手作業で写し取る)作業から生まれたもので、本作で使用されたセル画は96000枚、すべて積み上げたら16.32メートルに及ぶという。辻によれば「三週間ぐらい旅行に行って帰ってきても、三十人のスタッフがまだ同じところを描いている」ほどで、気が遠くなるような作業をやり遂げたアニメーターたちの苦労を感じる。筆者は小学生の頃に本作の絵本を読んで『シリウスの伝説』の存在を知り、大人になってから映画本編を改めて鑑賞した。あらかじめYouTubeに上がっていた本作の予告編を初めて見たとき「アニメーターたちは彼らの輪郭線に、どれだけの手間と暇をかけたのだろう。きっと、この作品にはアニメーターたちのすさまじいまでの努力が詰まっている」と感じてしまった。それがきっかけでサンリオ映画のほとんどを鑑賞するようになったこともあり、筆者にとって思い入れが深く、一番好きなサンリオ映画である。

ユニコ魔法の島へ(1983年)

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『ユニコ(1981年)』の続編だが、前作とは完全に独立したストーリー。少女チェリーに拾われたユニコと、彼女の兄が弟子入りしている悪の魔法使いククルックの対決を描く。ククルックの声を担当した故・常田富士男は、独特の台詞回しが多かったことから、収録で何度もNGを出したというが、それでもユニコやチェリーを上回る圧倒的な存在感を発揮している。

手塚は本作を「筋に起伏があって、やっと『ユニコ』の長編ができたなぁと思っています。これはいちに監督の村野(守美)氏とスタッフたちの努力のたまものと思います」と絶賛している。手塚はククルックに対して「ユニコはおとなしくて愛らしいキャラクターだから、個性の強いキャラクターを脇に置いたほうが成功するだろうと思ったのです」と述べ、アニメならではのククルックの変身シーンに注目して欲しいと語っている。

妖精フローレンス(1985年)

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クラシック音楽がBGMとして前面に登場するサンリオ版ファンタジア。主人公の少年マイケルとベゴニアの花の妖精フローレンスの恋と冒険と成長の物語。『想い出を売る店』と同時上映され、昭和期のサンリオ映画としては最後の作品となった。

コンセプトは「子供たちの好きなアニメーションでクラシックの名曲を表現し、子供たちにクラシックを聴く機会を与えたい」で、選曲に当たっては「みんなが一度は聞いたことがある名曲で、演奏会でもよく演奏される曲」が選ばれ、『ファンタジア』同様、音楽に合わせて作画を行うライカリール・システムを導入。アニメーター全員が楽譜を前にヘッドホンで音楽を聴きながら作業を行ったという。原作は辻の書いた『アイリスの墓標』と『妖精フローレンス』のうち、ストーリーのシンプルさと、物語は音楽を引き立て、表現するための材料であるという理由から後者が選ばれた。そのため、原作のマイケルは工科大学を目指す受験生として描かれているが、映画では音楽学校に通うオーボエ奏者として描かれている。

想い出を売る店(1985年)

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フランス・ノルマンディーを舞台にした、日本人スタッフとフランス人キャストが織りなす洋画のような邦画。現在サンリオピューロランドで上演されているミュージカル『MEMORY BOYS 〜想い出を売る店〜』の元になった作品だ。マイメロディと男性キャストが演じるスチームパンク風の『メモミュ』とは異なり、遠距離恋愛をテーマにした若い男女と「想い出を売る店」を経営する老人の交流を描いたラブストーリー。音楽としてリチャード・クレイダーマンが参加し、本編にも登場している。

サンリオ映画部に在籍していたある方にツイッターでお伺いしたところ、本作はアニメとして企画され、それには宮崎駿と高畑勲が参加しており、アニメとしては流れたものの実写映画として製作されたという。そのためか、本作のストーリーや登場人物の配置は、宮崎が脚本を書いたスタジオジブリの『耳をすませば(1996年)』と似ている。マリーを月島雫、トムを天沢聖司、ジョセフじいさんを西老人に置き換えればわかりやすいだろう。

当時のアニメ業界を振り返る

では、サンリオ映画の活動時期である1970年代~1980年代半ばにおいて、日本や世界のアニメーション業界はどのような状況だったのだろうか。

1.アニメブームからアニメ新世紀宣言へ

1970年代~1980年代半ばは「アニメブーム」の時代とされているが、その嚆矢となる作品こそ『宇宙戦艦ヤマト(1974年)』である。その圧倒的なスケール感や、宇宙戦の迫力とSF感覚、松本零士によるキャラクターデザインなどで一部の熱狂的な視聴者を獲得するも、裏番組だった『アルプスの少女ハイジ(1974年)』に視聴率で敗れ、シリーズは打ち切られてしまう。しかし、これを受けたファンたちが全国各地でファンクラブを結成して活動を始め、再放送の視聴率が上昇するなど、作品のヒットへの気運が高まっていった。それまで子供のものとされていたアニメの視聴者層が若者まで広がったことから、『ヤマト』のプロデューサーの西崎義展はそれに応えるべく、『ヤマト』をアメリカに売り込むつもりで製作していた二時間の総集編を国内で上映しようと考えた。当初は東京での単館上映のみが予定されていたが、情報を告知したアニメ誌が完売したことや、製作側とファンクラブによる地道な宣伝活動もあいまって、前売券の売り上げ記録が当時の最高記録を更新。これに驚いた配給側は上映館を拡大する。こうして公開された劇場版『宇宙戦艦ヤマト(1977年)』は、公開の数日前からファンが劇場で行列を作り始め、そこにマスコミが注目したことから社会現象となり、「アニメブーム」が若者文化の一つとして認識されるようになった。翌年に公開された、完全新作となる『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち(1978年)』も、その結末を巡って賛否両論があったものの、400万人の観客動員数を記録した。

『ヤマト』の爆発的ヒットは『アニメージュ』や『ジ・アニメ』などのアニメ誌が次々に創刊される契機となり、ファン同士の交流の場が生まれたことで、アニメファンの活動は急激に活発化。同人活動や二次創作を行うようになったことから「オタク」という呼称が生まれるきっかけを作った。そんな彼らが次に注目したのが、富野喜幸(現・由悠季)であった。彼が監督を務めた『機動戦士ガンダム(1979年)』も『ヤマト』同様、再放送がきっかけでファンを拡大していく。劇場版第一作『機動戦士ガンダム(1981年)』と第二作『機動戦士ガンダムII 哀・戦士編(1981年)』が立て続けに公開され、一作目の公開直前には新宿駅前で富野や声優陣が「アニメ新世紀宣言」と題したイベントを開催。一万人近いファンが駆けつけた。そのほとんどが子供たちではなく、10代から20代の若者であった。翌年に公開された劇場版三作目『機動戦士ガンダムIII めぐりあい宇宙編(1982年)』は配給収入12億9000万円を記録し、同年の邦画配給収入第1位を獲得する。

アニメ映画では『ヤマト』『ガンダム』以外にも『銀河鉄道999(1979年)』『ルパン三世 カリオストロの城(1979年)』『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー(1984年)』『超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか(1984年)』などの人気作・話題作が次々に公開された。さらに『スター・ウォーズ(1978年)』などのSF映画ブームやファミコンの隆盛、スーパーカーブームとマイコンブーム、『週刊少年ジャンプ』の黄金時代などもすべてこの時期の出来事であった。

2.一方ディズニーは

サンリオ映画が目標としていたディズニーは、ウォルト・ディズニー死後の1960年代後半から1980年後半にかけて、長い低迷期に突入していた。

ディズニーのアニメ映画は『白雪姫』公開以降、第二次世界大戦による経営危機に見舞われていたが、『シンデレラ(1950年)』の大ヒットを皮切りに黄金時代に突入。『ふしぎの国のアリス(1951年)』『ピーター・パン(1953年)』『眠れる森の美女(1959年)』などの名作が生まれた。

ウォルトと共にディズニーアニメを支えたのは、「ナイン・オールドメン」の存在であった。彼らは1920年代後半〜30年代半ばにかけて入社した9人のベテランアニメーターで、『白雪姫』から80年代初頭までのディズニーのアニメ映画には、彼らのうち誰かが必ず参加していると言われている。ウォルトが亡くなったあと、ナイン・オールドメンも高齢化に伴って相次いで退社。その中の一人であるウォルフガング・ライザーマンは例外的にディズニーに残留し『王さまの剣(1963年)』から『ビアンカの大冒険(1977年)』までの長編作品で立て続けに監督を務めた。

低迷期の中の一作である『きつねと猟犬(1981年)』はナイン・オールドメンが最後に携わった作品となったが、その一方で新しい世代の胎動が起きていた。

本作に携わった若手アニメーターには『トイ・ストーリー(1995年)』の監督かつ、2018年までディズニーのチーフ・クリエイティブ・オフィサーを務めたジョン・ラセターのほか、『アナと雪の女王(2013年)』のクリス・バック、『リトル・マーメイド(1989年)』『アラジン(1992年)』『プリンセスと魔法のキス(2009年)』『モアナと伝説の海(2016年)』のジョン・マスカーとロン・クレメンツ、『Mr.インクレディブル(2004年)』『レミーのおいしいレストラン(2007年)』のブラッド・バードといった、その後ディズニーとピクサーの人気作を手がける監督たちが多く参加している。彼らはナイン・オールドメンのエリック・ラーソンが立ち上げたトレーニング・プログラムの出身者であった。

サンリオのアニメ作りは、アニメブームを牽引していた作品郡とは明らかに一線を画していた。それは辻が「ディズニーを越えたい」「ファンタジアを越えたい」という一心で製作を行なっていたことに尽きるが、そのほとんどが興行的なヒットに恵まれなかった。当時の映画年鑑によれば、『シリウスの伝説』の配給収入は、わずか7500万円しかなかったという。キネマ旬報の1983年1月上旬号に、当時の窮状を伝える以下の記事がある。そこで取り上げられたサンリオ映画は、デビュー当時の中井貴一が主演した実写映画『父と子(1983年)』だった。一部を抜粋しよう。

この作品、プレスシートの解説を引用させてもらうと「〝愛〟をテーマに、記録映画、動物映画、アニメーションを作り続けてきたサンリオ映画がはじめて劇映画に挑戦。一組の父と子の姿を通して、最も身近な〝骨肉の愛〟に鋭いメスを入れ、親と子の絆の在りようを探ろうとする感動の問題作である」とある。
確かに、サンリオはこれまで一貫して夢、愛を観客にプレゼントするという映画作りを続け、その製作姿勢は評価すべきものがあった。
ただ、そのような意味で、あまりにも優良作品を追求しすぎるために、商売的には成功といえる作品が極端に少ないのも事実なのであり、それにはサンリオだからできる膨大な製作資金の投入が採算度外視となって、利潤を生むところまでいかないというのも、また事実であろう。
つまり、これまで製作されたサンリオ作品で、成功といえるケースは「キタキツネ物語」ぐらいなものなのであるが、それでは「父と子」はどうかといえば、これまた大きな期待は持てそうにないのだ。(182p)

筆者はアニメブームと同時に「漫画・アニメ・ゲーム文化」が拡大し、人々の趣味の選択肢が広がったことも、サンリオ映画が採算を取れなかった原因の一つと考える。そのため、近年『ガンダム』とハローキティがコラボレートしていることに対し、かなり複雑な心境を抱いている。さらに、ディズニー映画自体が低迷期で勢いを失っていたこと、アニメファンの年齢層が拡大していく中、対象年齢を子供やファミリー層に設定し、若者をターゲットにした作品を製作できなかったことも大きいだろう。しかし、辻信太郎をウォルト・ディズニーの後継者と呼ぶにしては、上記の欠点以外にも重大な時代錯誤があったように感じる。その理由は後述したい。

株式の公開、そして解散へ

『シリウスの伝説』が公開された翌年の1982年4月、サンリオは東京証券取引所市場第二部に上場し、1984年1月には第一部に上場。名実ともに大企業へと成長を果たしていた。辻は株式を公開することの意義を、著書『社長大学(1989年、日本経済新聞社)』でこのように述べている。

ゼロから事業を興し、手塩にかけて会社を育て上げた創業社長やオーナー経営者が株式公開しようとするとき、(略)覚悟が必要ではないでしょうか。なぜなら、公開することによって社長は多くのものを失い、意識のうえで改めなければならないことがいっぱいあるからです。(略)株式公開の利点をおさらいしてみましょう。
まず第一に完全な私企業から公的な存在になるのですから社会的な信用が得られます。このために優秀な人材も得やすくなるわけです。資金は株式市場から低利で調達できるようになりますから、銀行になんべんも足を運び、米つきバッタのように頭を下げて融資を求める必要もあまりなくなります。海外に進出しようとする場合も、未上場企業と比べると信用は雲泥の差でしょう。国際的な信頼も得られるわけです。
もっとありがたいのは、創業者利潤が入ってくることです。極端なことを言えば、ほとんど価値のなかった持ち株が、公開したとたんにべらぼうな値段がつき、しかもそれを売って得たお金には税金がかからないというのです。(略)会社を作って大きくしてきた以上、やはり大威張りで自慢していい出来事でしょう。
しかし喜ばしいことばかりではなく、代償も少なくないのです。最大のものは、私的な企業が公的な存在になるのですから、会社の私物化が許されなくなります。
未上場のころは個人資産と会社資産はほとんど一体化している。会社の正門は自宅の玄関と同じ。社長室は居間のような錯覚にとらわれます。子供の誕生会や孫のひな節句のお祝いにも、知らず知らずに会社のお金で処理してしまう。ちょっとした自分の食事を会社経費でまかなってもあまり抵抗はない……。
長年のそんな習性を急に改めろと言われても、なかなかできるものではありません。しかしそんなことでは株式公開はできないのです。かつて自分のものだったものがすべて皆のものになるのですから、寂しくなるのも無理はない。しかしそれを乗り越えなければ、会社は「ベンチャー企業」のまま。決してそれ以上は大きくなれません。(175p~177p)

尾上によれば、辻は上記の理由とともに、株主への大きな責任を負う以上、創業者として支出に対して慎重な態度を取らなければならなくなったのは当然だったという。さらに尾上は、辻は経理担当の社員たちの不安にも関わらず、映画制作に巨額を投じ続けることが可能であったとしても、株式公開後は、芸術の創造よりも著作権ビジネスとキャラクター・ビジネスを営む企業としての利益を優先せざるを得なくなったのではないかと振り返っている。

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サンリオ映画は相変わらず、客と金を呼び込める打開策を見いだせないまま続いていく。連続テレビ小説の大ヒット作に救いの手を求め、小林綾子などのドラマ版と同じキャストを声優に起用してアニメ映画としてリメイクした『おしん(1984年)』も惨敗。『妖精フローレンス』公開直前に刊行されたフィルムブックのあとがきにおいて、辻は作品がヒットするという奇跡を信じつつ、かなりの不安を感じていたことがうかがえる。

(筆者注:サンリオが映画製作を始めて以降)テレビアニメならともかく、長篇フルアニメーションや動物ドキュメンタリー映画の製作は人と金と時間がかかり、とても採算が取れるものではないと知りながらも、この事業を推し進めてきたことでしょうか。(略)
しかし、製作を進めていくうちに、この作業を完全な形で完成させるには、アニメとしては考えられないくらいの費用(筆者注:当時のテレビアニメの制作費が平均200~300万円に対し、約10億円)がかかってしまうことがわかってきたのです。サンリオの作品は製作費がかかりすぎていて、いつも興行的には赤字になっています。今回もまた……と思うとより完璧を期することができず、本当に悔しい思いをしました。それでもいざ公開するとやはり赤字なのでしょう。
しかし、誰かが赤字を覚悟で作らなければこんな手のかかる大変なミュージックアニメーションは決して生まれないだろうと思う気持ちと、十年、二十年と経ったいつの日か、このミュージックアニメの素晴らしさが多くの人達の心をとらえ、赤字が消えていくのではという願いから、励ましあいながら製作を続けてきたのです。

辻の一縷の望みとは裏腹に、スタジオの斜陽は確実に近づいていた。『妖精フローレンス』の制作が終盤に差し掛かった頃、スタッフたちの間では「サンリオ映画部が閉鎖、もしくは縮小されるかもしれない」と噂されていたという。そして、ある日の夕方、スタッフのほとんどが呼び集められると、プロデューサーがいつになく緊張した表情で「映画部の解散が正式に決定しました」と告げたという。この言葉通りにサンリオ映画部は約十年間の活動に終止符を打ち、その累積赤字は50億円以上にも及んでいた。残された主要スタッフの多くは、波多と波多野が共同設立したグルーパープロダクションに移籍、後述のサンリオアニメフェスティバルのほか、劇場版『スーパーマリオブラザーズ ピーチ姫救出大作戦!(1986年)』やアニメ版『行け!稲中卓球部(1995年)』などを手がけた。

株式の公開が映画部解散の直接のきっかけであることは確かだが、西沢や尾上は、サンリオ映画の欠点をそれぞれ分析していた。

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サンリオ映画の中で一作だけ例外的に大ヒットした『キタキツネ物語(1978年)』は、配給収入が10億円を突破するなどして興行的にも成功を収めた。テレビ放映されたときには44.7%という驚異的な視聴率を獲得したことからも、国民の本作への注目度が高かったことがうかがえる。

しかし、それほど話題になったにもかかわらず、本作は配給手数料や宣伝費を差し引いても、結局赤字になってしまった。先述のように、アメリカではすでにサンリオ・フィルム・コーポレーションが存在していたものの、西沢はサンリオ映画部不振の原因を、日本において配給部門と興行網(映画館)を持っていなかったからだと指摘する。辻もそれを自覚していたようで、2014年に刊行された『くるみ割り人形 ストーリー・シネブック』のあとがきで、当時をこのように振り返る。

考えてみると、サンリオは、三十本以上の映画を制作致しましたが、ここで突き当たったのが映画を制作しても、これを上映する映画館を持っていないことでした。そのために東宝さん、松竹さんなどの映画館を借りなければならず、やっと松戸と水戸(筆者注:千葉県松戸市の松戸サンリオ劇場と茨城県水戸市の水戸サンリオ東宝。いずれも現存せず)に二館の映画館を作りましたが、新宿、銀座、浅草、梅田などという主要な都市すべてに作ることは、とても難しいことでした。

尾上によれば、辻が映画製作者として味わった苦難は、同じく独立系映画製作者だったウォルト・ディズニーの苦難と同じだったという。ウォルトが配給業者たちや大手映画会社に翻弄されているのを見た兄のロイは、1953年、ディズニー映画の配給部門としてブエナ・ビスタ(現:ウォルト・ディズニー・スタジオ・モーション・ピクチャーズ)社を設立。尾上は、もし辻に映画産業の実情を把握していたロイのようなパートナーがおれば、サンリオ映画を世界に冠たるものにすることも可能だったかもしれないと残念がっている。

サンリオ映画と『ファンタジア』

サンリオ映画に限らず、20世紀の古今東西のアニメ作家たちは、クラシック音楽とアニメーションを融合させた、いわば自己流の『ファンタジア』を公開し続けてきた。手塚治虫はムソルグスキーの同名組曲を題材にして『展覧会の絵(1966年)』を製作。イタリアでは『ファンタジア』と同じコンセプトで大人向けのエスプリを効かせた『ネオ・ファンタジア(1976年)』も公開されている。戦後の日本アニメ業界で活躍した女性アニメーターを題材にしたNHKの連続テレビ小説『なつぞら(2019年)』にも、主人公が本作を映画館で鑑賞するシーンが登場した。彼らにとっての『ファンタジア』とは、同じアニメ作りを志す者として共通する、目指すべき夢の一つだったのかもしれない。

‪ところが、ディズニー・ルネッサンスを迎えた1990年代以降になると、かつてのアニメーターたちの目標や、辻の価値観とは対照的に、登場人物が歌って踊る場面を効果的に挿入した、すなわちブロードウェイ・ミュージカルのスタイルを取り入れた作品が、ディズニー映画のメインストリームとされるようになった。音楽の主役が「オーケストラ」ではなく「歌声」に転換したのである。

ルネッサンス時代のディズニーアニメを音楽面で支えた‬アラン・メンケンや、『アナと雪の女王(2014年)』と『リメンバー・ミー(2017年)』の音楽を担当したロバート・ロペスとクリステン・アンダーソン=ロペス夫妻は、それぞれディズニーと関わる以前にミュージカルの楽曲を手がけていた実績があった。さらに『リトル・マーメイド』以降のディズニー映画のヒット作のほとんどはブロードウェイ・ミュージカルとしても上演され、日本では劇団四季などで公演が行われている。

筆者は幼少期に『ファンタジア』を観たことがあるものの、唯一楽しめたのは『魔法使いの弟子』くらいで、他のディズニー作品と比べると映像が難解で抽象的すぎるように感じ、退屈な作品に思えてしまった。そのためか、筆者はディズニー作品に対しては『ファンタジア』よりも、宝塚歌劇団やブロードウェイ・ミュージカルと同様「歌って踊るミュージカル」のイメージを抱いている。

ディズニー映画の最高峰が『ファンタジア』だった頃は、他者が製作したディズニー的なアニメ映画といえば、サンリオ映画や先述の「自己流ファンタジア」たちが当てはまるかもしれないが、ディズニー・ルネッサンス以降の価値観になれば、『アナスタシア(1997年)』『プリンス・オブ・エジプト(1998年)』の方がディズニー的と言えるだろう。

それに対し、サンリオ映画の音楽の見せ場は管弦楽・クラシック音楽などの、登場人物による歌声が主役にならない「BGM」が中心である。そのため、登場人物は歌唱せず、基本的にドラマ仕立てで進行する。中には登場人物が歌唱するシーンや作品もあるものの、それが全編にわたって進行しているわけではない。

サンリオ映画は、『ファンタジア』を基準として映画製作を行ったことで、その後のディズニーアニメの音楽の価値観と結果的にズレてしまった。サンリオ映画の敗因はこの記事に書いたことすべてももちろん含まれるが、筆者自身が最大の敗因を考えるなら、やはりこれしかない。

筆者はよく、もしサンリオ映画部が1980年代半ば〜1990年代前半に発足していたら…という考えを抱いている。1970年代後半のサンリオは現在のような大企業ではなく、総売上300億円前後の中堅会社で、「女の子を持つ家庭以外にはほとんど知られていない」程度。サンリオは当時よりも企業として成長していただろうし、何より、サンリオ映画にブロードウェイ・ミュージカルのスタイルが適用されていたかもしれない。『美女と野獣(後述)』の初公開年に生まれた筆者は、ディズニーアニメと言えば「キャラクターが歌うのが当たり前(そうでない作品もたくさんあるが)」と考えているため、シリウスとマルタが歌っている姿や、マイケルとフローレンスの文字通りのデュエットを見てみたかったと思ってしまう。

その後の時代

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サンリオピューロランド(2017年、筆者撮影)

サンリオ映画部解散後、辻は「日本のディズニー」になる方法かつ、自身の芸術上の自己実現を別の場所に求めなければならなかった。やがて、大衆に向けた芸術の成功が、「友情」と「コミュニケーション」の尊さを企業理念とするサンリオの成功につながると信じ、テーマパーク建設を考えるようになる。辻は自身の63歳の誕生日である1990年12月7日、ディズニーランドを建設したウォルトと同じく、自分の哲学と理想を詰め込んだテーマパークを作りたいという願いを込めて、東京都多摩市にサンリオピューロランドをオープンさせた。翌年には大分県日出町に、同じコンセプトの姉妹パークとしてハーモニーランドがオープンしている。

ところが、同じ頃、辻やアニメーターたちがあれほどの目標にしていたディズニーが、まさかの復活を遂げた。『リトル・マーメイド(1989年)』の大ヒットである。ディズニーはこの作品以降、次々に長編アニメ映画でヒット作を連発し、「ディズニー・ルネッサンス」と呼ばれる黄金時代を再び迎えていく。

ナイン・オールドメンに代わる先述の若手アニメーターたちが台頭したこともあるが、1984年に元パラマウント・ピクチャーズ社長のマイケル・アイズナーがディズニーのCEOに就任したことや、彼が連れてきたジェフリー・カッツェンバーグが映画部門の責任者に就任したことも大きかった。

『美女と野獣(1991年)』はその完成度から、アカデミー賞でアニメの賞が短編しかなかった時代に、長編アニメ映画として初めて作品賞にノミネートされる快挙を成し遂げた。続く『ライオン・キング(1994年)』も当時としては歴代最高の興行収入を記録。さらには外部の制作会社だったピクサー・アニメーション・スタジオと提携して、世界初のフルCG長編アニメ映画『トイ・ストーリー(1995年)』を公開。ピクサー映画の歴史が始まった。

一方、スタジオジブリの宮崎駿高畑勲も、企業タイアップやテレビ局との連携を駆使してアニメ映画でヒット作を連発。高畑は比較的寡作だったものの、宮崎は自身が監督を務めた『もののけ姫(1997年)』『千と千尋の神隠し(2001年)』で、日本映画の歴代興行収入を次々に塗り替え、日本アニメ業界において有数のヒットメーカーとして世界的にその名を知られるようになり、辻がなれなかった「日本のディズニー」に最も近い存在となっていく。

サンリオも、快進撃を続けるディズニーやジブリに対して、再びディズニータッチの長編アニメを制作…すると思いきや、『サンリオアニメフェスティバル』などのサンリオキャラクターが主人公のオムニバス映画を制作していく。1989年夏にその第一弾として『ハローキティのシンデレラ』『マイメロディの赤ずきん』『キキとララの青い鳥』が公開された。辻は日経新聞の取材に対して、「サンリオの映画をまた観たいというファンに応えることにした」と語っており、『ドラえもん』シリーズのヒットや、一般向けの作品にも関心が高まるなど、アニメ映画市場の拡大が見込めるとして再開に踏み切った。アニメ映画を製作することでキャラクターの知名度をさらに上げ、当時建設中だったサンリオピューロランドを宣伝する狙いもあったという。これらのオムニバス映画は、やがてサンリオキャラクターが名作童話を演じたり、サンリオキャラクターの日常を描いたOVAにシフトしていく。

アニメーターたちは、かつてあれほど目標にしていたディズニーの復活ということで、一度は躍起になったかもしれないが、サンリオ映画の経験から、映画を作っても稼げないと感じ、あえて安定した道を選択したのだろう。バブル経済から一転して不況を迎えていく日本において、危険な綱渡りよりも平らな道を渡るほうが安全だ。波多は、自身が監督を務めた『リトル・ニモ/NEMO(1989年)』の興行的不振もあり、ディズニー調の長編アニメーションを制作することにモチベーションを失っていたのかもしれない。

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サンリオ映画はやがて、辻のもうひとつの「日本のディズニーの夢」を体現した、サンリオピューロランドのパレードやショーの題材となっていく。これまでもメルヘンシアターやフェアリーランドシアターでは『ハローキティの妖精フローレンス』『マイメロディの星と花の伝説(『シリウスの伝説』が原案)』などが上演され、とりわけ2007年から2013年まで上演された『サンリオハートフルパレード Believe』には、シリウスとマルタ、マイケルとフローレンスなどのサンリオ映画のキャラクターが総出演。これらの作品の一部はDVD化されているので、映画とのストーリーの比較などを楽しんで欲しい。

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