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家族のあり方への考察、屋根の数だけ家族のかたちがある

会社でのランチの会話。みんなの家族についての話になる。同僚のサライは、両親は離婚していて、お姉ちゃんが2人お兄ちゃんが1人いる。彼女が考え深げに、
「わたしの家族って、お互いに対して手厳しいんだよ」と言った。
そこですかさずわたしは、
「でもさサライ、それって家族がみんなひとりひとり自立してるから出来る意見交換であって、容赦ないやりとりはお互いを信頼してるからで、心も身体もみんな健康って証拠だから、まったくもって健全な家族像だと思うよ」と返す。

日本に住むわたしの家族は何年も前から、倒れた母親の面倒を姉と父で看ていて、お互いにみんなを必要としている状況だから、どうしたって“手厳しく”出来ない時がある。お互いに気を遣うのだって家族のあり方だ。

わたしはパンデミックになってから、だいたい一週間に一回のペースで父親にFaceTimeをするようになった。
毎回、発信中に手持ち無沙汰ならぬ顔持ち無沙汰になるから、スマートフォンのカメラ越しに変顔をして父親が着信するのを待っていたら、いつしかそれが定番となり、父親も対抗して変顔ジャンケンでビデオコールを始めるのがお決まりとなった。平和だ。

というのは置いといて、

わたしはヨーロッパで生活していて、まわりの友達や同僚が、毎日のように家族に電話している子を何人も知っている。
そんな毎日話す事あるんかいと、最初の頃は疑問だった。けど、話すというより“シェアする” という言葉のほうがしっくりくるかもしれない。
まず、彼女らの会話は How are you? 調子どう?How was your day? 今日はどんな日だった?というお決まりのセリフから始まる。
だから別に今日これと言ったことがなくても、ただ自分の1日を報告する。家族なんだから、オチのないくそつまらない話をだだ漏らしてもいい。

そんな環境に居るので、わたしも父親に今日の天気はどうだった?とか、夕飯何食べたの?とか、たわいもない質問から、お母さんの調子は?という本題まで割と幅広く聞くのが自然になった。
でもある日わたしは、通話中に父親がわたしに一度も質問してこない事を疑問に思った。
「わたしはお父さんたちがどんな1日、1週間を過ごしたのか気になってるからいつも質問してるんだけど、お父さんは一回もわたしに対して聞いてきた事ないよね。お父さんさ、わたしに興味ないの?」
38歳の娘に真剣に聞かれたから、さぞかし父親も怖かっただろう。38歳のかまってちゃん。
父親いわく、
「便りがないのは良い知らせ、だから。」
らしい。いやでもこれ電話だから。言葉のキャッチボールだから。
まぁ聞かれてなくてもわたしが勝手に喋っていれば良かったんだけど。わたしは性格上、自分のことを聞かれてもないのにベラベラ話すのがどうも苦手だ。この事をベルギーに住む日本人の友達に相談したら、父親と変顔ジャンケンが出来る時点で、どんなコミュニケーションよりも破壊力があるから心配無用だと言われた。
ちなみにごく平和な家族の会話の70パーセントくらいは、ほんとうにしょうもない会話で成り立っていて、で、そのしょうもなさをたれ流せるのが、家族の証なんだろうと思う。

なかには、コミュニケーションさえとれない家族のあり方だってある。
比べるものじゃないけど、そう思うとシェア出来る何かがあるってだけでかけがえのないものなんだと思う。
‘屋根の数だけ’っていうのは、ずっと昔にどこかで聞いた言葉。その在り方は千差万別だ。
ひとつひとつの屋根の下に、
それぞれのストーリーがある。

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