ピナバウシュへの考察、素質をもっているすべてのものへ
ピナバウシュ(ドイツの超有名振付家)の亡き後の彼女の率いたダンスカンパニー、ヴッパタールタンツテアターのドキュメンタリー
‘The legacy of Pina Bausch’
をARTE で見る。
https://www.arte.tv/en/videos/082790-000-A/the-legacy-of-pina-bausch/
(2月8日までフリーストリーミング)
わたしがこれまで劇場で見た彼女の作品は、代表作のcafé muller とAuf dem Gebirge hat man ein Geschrei gehört の2作品。
両方とも、シアター寄りのコンテンポラリーダンスで、人間の日常的な動きこそがダンスであると言わんばかり。ドキュメンタリー中のピナがダンサー達に「あなたが泣く時にどうやって泣くのか(どう身体が反応して動くのか)説明して」という質問を投げかけているのを見た時、“泣く”という、だれもがほぼ無意識で行っているであろう行為にまで、ダンス性を見出しているのかな、と衝撃を受けた。
彼女の有名な名言のなかで、
「わたしは人がどう動くかには関心がない。
何が人を動かすかに関心がある。」
というものがある。
プロフェッショナルのダンサーたちの訓練された動きよりも、日々の生活で感じるそれぞれの感情と、それに連携する身体の動きの方が、その場の空気とその人自身を直結に表している。
ドキュメンタリーを見終わって、人間ひとりひとりのドラマがいわばダンスの要素たっぷりであり、わたしたちがみなダンサーである、と言っているように感じた。
この感覚、、、なんだろう、
最近考えていた何かに似ている。。。。
そうだ!
これってなにか仏教感と通ずるものがある。。。
大乗仏教は分け隔てなく、お釈迦さまの教えを信じるみんなのもので、煩悩を持ちながらも、精進する心と感謝の心を忘れなければ、誰しもがいずれは仏陀になる素質があると説いている。(仏陀とは悟りを得たもののこと)
だから、生きとし生けるもの、みんな大切に接しなさい、と。
それに対して、例えばキリスト教は、信者はどれだけ熱心でも、決してキリスト自身になる事は出来ない。
ピナバウシュのダンスも、彼女の哲学をシェアするみんなのもので、たとえば公園で追いかけっこをする子供たちや、電車の中で五分間片足立ちチャレンジをするダイエット中のOLだったり、マスクの下で誰にも知られないように変顔を試みるわたしとか、みんなそれぞれ毎日を生きて、人の数だけドラマがあるように、地球上に生きる誰しもがひとりひとりの特別な物語を持ったダンサーだと、わたしたちに語りかけているような気がした。
“素質を持っているすべてのものへ”