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言葉の意味への考察、トールキンとサライの甥っ子に学ぶ もののあわれ

同僚サライとの日常会話。
最近彼女の10歳の甥っ子が、自分で言葉を開発するのにはまっている、らしい。
例えば、パプリカだったら、パリプカみたいに言葉の一部をひっくり返したり、はたまたどこからそうなったみたいな言葉もたくさんあって、たまに理解するのが難解だと言っていた。
彼には彼なりのルールがあって記憶、理解して喋っているのだそう。
自分の子供時代も、なんかそうやって適当にお姉ちゃんとの間だけ通じる言葉とか、勝手に作ったりしてたなぁ。。。
言葉は深く知れば知るほど面白く美しいが、他言語を習得するのも子供時代の方が有利なのと同じで、固定概念がない方が、“クリエイティブランゲージ”に対して、抵抗を持たない。

日本では新しい言葉が絶えず生まれては消えていき、わたしは一年に一度帰国するたびに浦島太郎状態だ。
ら抜き言葉とかは今に始まった事じゃないけど、他にもネットスラングとか、お笑い芸人のギャグとか、流行語大賞とか、全部覚えようとしたら、途方にくれる量だと思う。
むかつく、とか、
がっつり、とか、
キモかわ、とか。。。
この辺は馴染みがあるけど、最近はどういうのが開発されてるんだろう。
クリエイティブなみなさんが、せっせと新しい日本語をアップデート。お疲れ様です。

調べていたら、現代の新しい言葉の性質は
音が言い易いこと
イメージで捉えやすいこと
という共通点があるらしい。
“いとをかし”を忘れてしまったわたしたちだけど、今なりの言葉が放つイメージを大切にしている、その点では現代人の言語感覚は衰えていないのだろう。

と、なんでわたしが言語に関して急に、
“もののあわれ”なのかというと、、、
ホビットとロードオブザリングの著者である、
イギリスの作家トールキンの映画を見たから。
(*もののあわれ は、平安時代の美的理念の一つ。折に触れ、目に見え、耳に聞くものごとに触発されて生ずる、しみじみとした情趣(じょうじゅ)や、無常観的哀愁である。)

トールキンは言語の研究に熱心で、生涯で約15の人口言語(架空の言語/artificial language) を発明した。彼は特にフィンランド語を好み、心地よく響いたその音が、ロードオブザリングのエルフが話すクウェンヤ語に着想を与えたとされている。
わたしはベルギーに13年住んでいるけれど、現地の言葉(Flemish/フレミッシュ) が喋れない。
恥ずかしながら言い訳をすると、フレミッシュはわたしの耳に心地よく響かないうえに、言いづらさ(発音)とイメージの捉えにくさが相まってお手上げ状態なのだ。。。(個人差あり!わたしが単にそう感じているだけなので。。。)


映画の中で言語に関して印象的だったいくつかのフレーズがあったので、ここに書き置き。

言語は盗む物じゃない、影響を与えるもの。
最も音楽的な美しい言葉で、何度も繰り返すと魔法のよう。
言葉の美は音だけじゃない
音と意味が一つになり美しい。
例えば、『触れる』という言葉は、
音が美しいのではなくてその意味が美しいのだ。
言語の存在意義は物の意味だけでなく、
文化の根源であり、民族の命である。

一番好きなのが最後のこの言葉で、
そうか、言葉のあるところには広くも狭くもカルチャーがあって、人々(または宇宙人や妖精)がそこに根付いているんだって、根本的なことを思い出させてくれる。そして言語は影響しあい、時と共に発展していく。

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架空言語について、以前、ヴォイニッチ手稿というものについて投稿したことがある。
わたしが好きなそのヴォイニッチという書物は、その昔イタリアで発見された、現代人の誰にも解読不明で、謎の挿絵付きの作者不明の日記みたいなものなのだけど、読めない、正確な発音がわからないって言うのは、それ自体が壮大なポエムであると思う。
文献学として大人が躍起になって解読するよりも、
絵本としてサライの甥っ子が読んだ方が、
きっと素敵なストーリーが聞ける気がするのだ。

もののあわれ は、新しい言葉のアップデートに忙しいおとなたちよりも、案外、
無邪気な子供たちの方がよっぽど理解しているのかもしれない。

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