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コーチの健やかな成長とは

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コーチとして活動をする中で、「コーチの健やかな成長とは?」という問いが生まれた。すぐに答えが出る類の問いではないのだと、探究を重ねる中で感じるが、じっくり味わうこの探究プロセスを…
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#コーチング

実存主義アプローチを、“ググれカス文化”から見つめ直してみる

私はこれまで、コーチとして人々の人生に寄り添ってきた。クライアントの悩みや葛藤に耳を傾けながら、一人ひとりの内なる声を引き出す。そのプロセスは、単なる問題解決を超えた「実存的な対話」と言えるだろう。 コーチングにはさまざまな流派があるが、その理念の一部は人間性心理学に由来している。特に、自己実現や個人の成長を重視する視点は、実存主義哲学や人間性心理学が提供する重要な土台となっている。人間の存在そのものに目を向け、「私はどう生きるのか?」という問いを投げかける実存主義的アプロ

コーチングには正解はない。2つの国際コーチング機関の比較から見えたもの

日本には、米国発の国際コーチング連盟(ICF)の支部しか存在していませんが、国際的なコーチング機関はいくつか存在します。 私はこれまで、日本に支部があるICFの「コーチのコアコンピテンシー」や「レベル(ACC/PCC/MCC)」を参照してきました。 ICFは、幅広いコーチングの取り組みを包含し、多くの場面で役立ちます。 何よりも、様々な流派のコーチングが存在する中で、コーチの成長の「土台」として表現をまとめていることに心から敬意が湧きます。 同時に、コーチングの探究や実践

"ケア"が切り出された時代に、コーチングは誕生した?

最近宗教についての研究を長年行っていた人と対話をする機会を頂いた。 その際、「これまでの歴史の中でずっと別の形で行われていたことが、たまたま今の時代、コーチングという形で表現されているだけなのではないか?」という視点をいただいた。 例えは、「傷ついた人が、自ら救われた”何か”で人を癒すという行為」をとっても、宗教の歴史から見ると極々自然に何千年、何百年と行われていたことで、とても人間的な営みであることが歴史を見るとわかる。 また、村などのコミュニティの中で、そして家族と

「言葉」が持つパワフルさと「言葉」がもつ弊害

「内省をすること」の見直しについて言葉にしてみて改めて、ことばが持つ可能性と限界を感じている。 ”ことば”というインターフェースを活用するコーチングにおいて、 人が無自覚にとらえている「言葉の定義」や「言葉の奥にある自分の解釈」を見直し続けることの必要性を感じるのだ。 たとえば、当たり前に使われている”成長”、”豊かさ”、”変化・変容”などの言葉たち。 これらの定義やとらえている質感は人によって、そして時代によっても変化していくもののように感じている。 コーチが無自覚

"自己内省の価値"の妄信について

少し離れたところから「コーチングの価値」を見直してみたいこれまでの探究は、コーチの在り方に対する批判的な視点や、コーチングのやり方によっては危険性が伴うという視点を持ち込んできた。 しかし、「”正しく”提供することができればコーチングには価値がある」というスタンスを一貫して持っていたように感じる。 今回は、あえてそこを見直してみたい。 ”自己内省の価値を妄信すること"について 最近ずっと頭に引っかかっていることがある。 身近な人が以前、 「自己内省したり、セラピーや

コーチングは、「辿り着きたいところに辿り着くこと」のためにはないのではないか。

コーチングと言う言葉の語源は「馬車」から来ていると言われる。 だけど、私はこれに長年疑問を持っていて、あえて使わないようにしてきていた。 馬車のように人を「行きたいところに連れて行く」ようなコーチングは時代にフィットしているのだろうか?私はそこに疑問を持っている。 今の時代は 「混沌として前が見えない」 「前も、後ろも右も左もわからない」 「明日どうなってるかもわからない」 そんな霧がかかったような、雪吹雪のような、そんな時代だ。 あらゆるものに気が取られ、自分の今と

土に深く根差した、健やかな草花のように生きる

先日とある会社のアドバイザリーに入っていてとても不思議だな〜と感じたことがある。 詳細は伏せるが、その方は自分自身が体験として響いたものがあり、それを事業として取り組みたいと起業をされた方だ。 アドバイザリーで求められたのは、「X倍成長するにはどうしたらよいか?」というディスカッション。 いろいろ話すことはできるが、話しても話しても、「その人」と話している感覚になれていない自分に気づいていた。 「経営者として売上を作る人」とは話しをしているが、奥の「本人」とは話せていな