フェイスブックから転載です。
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まあうちの家系は亡き母の家系がベースなのでどうしても横浜がベースになります。
過去にも書いていますが熱海伊豆山の名主の亡き祖父の先祖が人足を引き連れて横浜に入り横浜の吉田勘兵衛の名の元で吉田新田開拓で名前も出さなく働いた時からかれこれ約350年近く横浜で家系を紡いで来たのが実際です。
私は亡き祖父から言えば長女、娘の子供の外孫なので亡き母の婚姻によって氏名が違いますが、男性名はこの亡き祖父から頂きまして20年近く使って嫌でしたので今の「瞳」に変わっています。
亡き祖父の「目立った事は大嫌い、貧乏家系で頑固者、人の為に徳を積む活動」の血の系譜は引き継いでおります。
亡き祖父は「横浜の発展に寄与した」と言うその功績で昭和天皇から功労の叙勲勲章を頂き、亡き昭和天皇にも拝謁しています。そこだけも誇れるものです。
亡き母は戦後の祖父の仕事を女学生時代から手伝い一番下の叔父を産んだ後の産後の育ちの栄養が行き届かなく産んですぐに亡くなった祖母の事も考えて母替わりの「お乳貰い」や「物々交換」と言った事を戦後の生活状況を考えて西谷、鶴ヶ峰、はたまた二俣川の方まで祖父が引くリヤカーを押すような血のにじむお手伝いをして、現在の横浜の組合設立の後押しを致しました。
何故か亡き母が笑顔で二重橋前でその昭和天皇から頂いた賞状を手に笑顔で収まっている写真があるのも納得は行きました。
横浜の総鎮守お三の宮日枝神社の屋根をふき替えたのも亡き祖父や大叔父たち、そして裏の倉庫側を数十年前に吹き替えた時に直々にお三の宮さんから仕事の依頼が来たのは亡き母の弟の厚木に現在住んでいると思われる叔父です。
この叔父に亡き母の葬儀の時に「性別移行は家系の恥」と言われて絶縁状と家系のいわれなどを頂きました。
この叔父の息子の従弟の兄さんは横浜の組合の副理事になっておりましたww
私はこちらのお三の宮の氏子であり、産まれた時にこちらでお宮参りの写真も出てきます。
私はお三の宮さんの大岡川を挟んで川向うの佐藤病院にて生を受けた、いわゆる「地のハマっ子」です。
多分家の亡き母の家系が無ければ大げさな話ですが「今の横浜の発展はありません」
横浜の中心部の古いお店の銅板やトタン板によってできている看板建築は多分亡き祖父たちが頑張って繋げてくれた板金職人たちの手によるものでしょう。
これは事実の事なので気になった方はいくらでも情報を集めて見て下さいね。
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