『いっていた年きていた年』
目が覚めたら夜中の2時だった。年越しで起きていられなかったのなんて、いつぶりだろう。また今年も一年が終わろうとしているこの今の気持ちを書けるのは今しかなく、それを書きたいと思って夕方から筆を取ったものの寝不足で頭がボーッとして全く言葉が出てこなかったので、少し眠ることにした。すると、この十二月の忙しさがフラッシュバックするかのような仕事の夢を見てうなされ、更には胃から喉元までムカムカと迫り上げてくるような腹痛に襲われて十九時頃に一度目を覚ました。結局その腹痛は一向に引く気配がなく、とうとうそのままベッドから起き上がることができずに夜中まで泥のように眠ってしまったのである。
大晦日の昼間には、邦画の『わたしは光を握っている』を観なおした。作中では、詩人・山村暮鳥の『自分は光をにぎってゐる』という詩が随所で引用されている。
"自分は光をにぎつてゐる
いまもいまとてにぎつてゐる
而もをりをりは考へる
此の掌をあけてみたら
からつぽではあるまいか
からつぽであったらどうしよう"
年が変わった夜中に目が覚めた時、山村暮鳥の詩のその冒頭が脳裏をかすめて焦燥感を覚えた。それから、寝てしまっている間に新年を迎えてしまっていたことを眼前に突きつけられた時、一人だけ置いてけぼりを食った気がして少し戸惑った。自分なりに踏ん切りをつけて、シチュエーションは違えど映画の主人公・澪のように二〇二二年を「しゃんと終わらせる」ことができなかったからだ。
朝起きると腹痛は引いていた。きっと十二月の疲れが最後にドッと出て、胃腸に来てしまったのだろう。食べそびれた蕎麦を食べて、凛として澄んでいる元旦の空気を吸い込んだ後に、祖母が澪に掛けた一言を反芻する。
「目の前のできることから、ひとつずつ」