みかぐらうた私解~よろづよ八首~
地歌
よろづよの せかい一れつ みはらせど
むねのわかりた ものはない
漢訳
万世(代)の世界一れつ(列)見晴らせど
胸(旨)の分(解)かりた者は無い
意訳
万世(=この世界の隅から隅まで全て、もしくは別世界を想定した三千世界という言葉の上位互換)を、万代(=人間世界創造から、人間が九億九万九千九百九十九年かけて、一万回もの世代を生まれ変わり出変わりをした期間)に渡って、つまり、空間的にも時間的にも全てに渡って、世界一列、つまり、一部の人間だけではなく、この世界に居る(居た)全ての人間の心の内を、親神は一人として余すことなく見晴らしてきたのであるが(単に見る、ではなく見晴らす、なので、それこそ表面的な心遣いだけではなく、心の奥底まで視抜き、見通されている)、その中に、親神が思っている胸の内を、または親神が伝えんとする教えの旨を、自ら悟って了解した人間は一人も居なかった。
おてふり
「よろづよの」の部分で、両手を波打たすように左右に振る手ぶりは、泥海を表していると解釈されてきたこともあるが、「よろづよ」を上記のような意味で解釈すると、泥海を表しているとは考え難い。むしろこの手ぶりは、時間の流れを表しているのではないか。(六下り目五ツの「すえで」は、右の方を指で指す。おてふりの世界の中では、時間は左右に流れる)そう考えると、続く「せかい」の手ぶりが、十二下りではイサミの手で振られることが多いのに、「よろづよ八首」のみ人差し指を立てた左手を左に振るのは、現在から過去のみの「せかい」を言っているからではなかろうか。
私はよろづよ八首と十二下りは、全て時系列順に並んでいると考えている。そして、よろづよ八首の意味内容を実際の時間に当てはめると、立教のその時にあたる(十二下りの十ドが、おやさまが現身を隠されて後のあたりの時間。よろづよ八首と十二下りをつとめることで、この間の50年を追体験する)。つまり、「よろづよ八首」の中で歌われている「せかい」は、人間世界が創造されてから立教までの間の時間の世界に限定されている。十二下りに入ってからは、親神様もこの世界に降りて、人間と同じ世界を共有されているので、その世界は「something good」を表すイサミの手で振られる。
そのはずや といてきかした ことハない
しらぬがむりでハ ないわいな
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?