感染症対策マニアが、新型コロナについて雑に語る⑧ 「神と人権」

神と人権


この連載コラムは基本的に1話完結型でお話していますので、どのコラムから読んで頂いても基本的には大丈夫なのですが、今回は前回の話があまりにも長くなったため、前後半に分けたものですので、必ず前回に記事を先にお読みください。


でないと、内容がよく分からない部分がでてくると思います。


さて、今回は、前回また次回お話しますと言っていた、「人間は、自分たちが勝手に決めたルールによって、人間の命と、それ以外の命とを区別しているんです」という部分についてお話します。


人間には人権があり、ニワトリにはニワトリ権が無い、というのは、「憲法に書かれている」こと以外に、根拠は無いと言う話でしたね。


以前、「信仰とは卵の殻である」という話をした時にも触れた『サピエンス全史』という本の中で作者は、「人権とは虚構である」という話をしています。


虚構というのは、作り話という意味です。


事実、現代のような「科学で証明できることだけが全て」という価値観に立てば、ヒトの身体やDNAを解剖して、ニワトリのものと比べた時に、ヒトには守られるべき権利はあるが、ニワトリには無いと断言できるだけの、それほどの大きな違いは見つけることができないでしょう。


ヒトだけが他の動物と比べて特別である、という、科学的な根拠は一切無いのです。


しかし、それで困るのは人間です。


人間は、お互いに殺し合っていては安心して生活していくことができませんし、かといって、ニワトリなどの動物を殺して食べたり、また、家畜に感染症が起こった時には全殺処分しないと自分たちの生活が危ぶまれます。


だから、人間には「人権」という、虚構が必要でした。


事実、人間が人権と言う虚構を獲得する前までは、伝染病が流行ったから、村を丸ごと焼き払うなんて、別段珍しい話ではありませんでした。


当時、権利が保障されているのは王族や貴族だけで、それ以外の人間の権利なんて、特別に守る必要なんて無かったからです。


しかし、だんだんと人々は、「王族や貴族と俺たちとの間に、本当はそんな特別な違いなんて無いんじゃないか?」ということに気付き始めたのです。


王族や貴族だけが特別なんて、虚構だ、作り話だ、と。


そして市民革命が起こり、全ての人間に、平等に人権と言う守られるべき特別な権利がある、という、新しい虚構が創られたのです。


そして、今、この虚構も新たな危機に瀕しています。


先ほど話した、「ヒトとそれ以外の動物との間に、本当はそんな特別な違いなんて無いんじゃないか?」ということに、だんだんと多くの人々が気付きだしているのです。


それは良いことじゃないか!と、そう思われる方も居るでしょう。


動物愛護団体の方や、ベジタリアンの方なんかは、この説を喜んで受け入れるでしょう。


私自身も、「動物をもっと大切にしなければいけない」という点では、この説に大いに賛成をしています。


しかし、この「人権は虚構だ」という発想には、もう一つの危険性が孕んでいます。


それは、人間性の軽視です。


「科学で証明できること」だけを大事にするなら、ヒトと他の動物には、それほど大きな違いはありません。


しかし、「目には見えないもの」を大事にするなら、ヒトと他の動物の間には、大きな違いがあります。


例えば、理性があること、知性や感性は動物も持ち合わせていますが、その発達度合いが著しく違うこと、また、霊性を持つこと、etc.


つまり、「心」の作用の違いです(動物には心が無いという意味ではありません。その作用がヒトとは違っている、ということです)。


その心の作用を持つことを、人間性と呼ぶなら、私はそれに敬意を払い、とても大切にしていかなくてはならないと思います。


人間と動物は変わらない、という部分を強調する社会がくると、どうしても人間の本能的な部分にスポットライトが当たります。


「好きに生きたら良いじゃないか」「やりたいことをやれば良いじゃないか」「後のことは考えず、とりあえず今のことを考えれば良いじゃないか」と。


だんだんと、そんな考えが社会の中に蔓延してきているように感じませんか?


しかし、本当の人間性とはそうした本能的な部分ではなく、そうした本能的な部分を持ちながらも、それを自制し、他者のことや未来のことを思いやれる、という部分にこそあると思います。


それこそが、ヒトとニワトリの本当の違いだと、私は思います。


「人権」の崩壊は、そうした人間性の崩壊でもあります。


もしこのまま世界が進み、本当に「人権」「人間性」の崩壊が起こったとしたら、その先に待つのは、倫理観の崩壊した、暗い世界だと思います。


それこそ、新型のウイルスが発生したので、その地区を焼き払いましょう、という発想が当然のように出てくる、昔の社会に逆戻りです。


さて、この未来は、変えようがないものなのでしょうか?


何か手はないのでしょうか?


それにはまず、「本当に人権は虚構なのか?」ということを、問い直してみることから始めましょう。


『人権』ということが、初めてこの世界に出てきた時は、それは虚構では無かったのです。


当時の人々にとっては、人間に人権があることには、れっきとした根拠がありました。


『フランス人権宣言』には、こう書かれてあります。


国民議会は、最高存在の前に、かつ、その庇護のもとに、人および市民の以下の諸権利を承認し、宣言する。


ここでいう「最高存在」とは、神のことです。


そう、当時の人々にとって、なぜ人間には人権があるということが、当然のこととして受け入れることができたか。


それは、「神様がそう言ったから」です。


更に正確に言うと、キリスト教のGodが、人間は神の似姿であり、他の動物たちや自然は、人間に支配されるために在る、と言ったからです。


だから人間は特別で、守られるべき権利「人権」を持つのです。


なので、「神様がそう言ったから」人間には人権があるし、「神様がそう言ったから」後の憲法にもそのように書いたのですが、時代が変わり、だんだんと神への信仰というものが薄れてきました。


つまり、神自体が虚構だと考えられるようになってきたのです。


すると、「人権」を庇護していたのは神ですから、神が虚構ならば、人権も虚構だ、ということになってくるのです。


その結果、「神様がそう言ったから」という価値観が次第に無くなり、「憲法に書かれているから、人権がある」という部分だけが残っているのが、現代の社会です。


私は、宗教家として、このことに強く強く警鐘を鳴らしたいと思います。


「神様がそう言ったから」という価値観は、人間が「善く生きる」ために、とても大切な考え方なんです。


例えば、「人間を殺してはいけないのは何故か」という問いには、昔は「神様がそう言ったから」と、誰もが答えることができ、その信仰を共有している限り、みんながそのルールを進んで守ることができました。


しかし神様への信仰が無くなると、「人間を殺してはいけないのは何故か」の答えは、「死刑又は無期懲役若しくは5年以上の懲役刑に処せられるから」ということになってしまいます。


みんなが守るルールの根拠は、普遍的なものでなくてはなりません。


「命は大切だから」「その人が死ぬと悲しむ人が居るから」などといった答えは、立場や視点が変わると、成り立たないことが多いのです(「ニワトリの命は?」「その人が生きていることで悲しむ人が居るから殺したんだ」など)。


どの立場の人から見ても、守るべきだと納得できるルールの根拠というのは、「法律で決まっているから」か、「神様がそう言ったから」の2つ以外には有り得ないのです。


法律が、完全に神様の代わりに成り得るのなら、もはや神への信仰は必要ないのですが、残念ながらそうではありません。


法律は、「殺してはいけない」「盗んではいけない」といった、消極的な善については、ルールにすることができるのですが、「優しくしましょう」「助け合いましょう」といった、積極的な善については、ルールにできないからです。


このままでは、「殺してはいけない」については、「法律で決まっているから」という根拠に基づいて守ろうとしますが、「優しくしましょう」については、そうしなければならない根拠が無いので、別にやらなくても良いじゃないか、という時代がやってきてしまいます。


まさに、倫理観の崩壊です。


現代においては、まだこの話はぴんと来ないかもしれません。


それは、人々の間に、神様への信仰は薄れていても、「目には見えない何か」への信仰が、まだちゃんと残っているからです。


神様は信じていないけれども、お地蔵さんを蹴るのは、なんか気が引ける、というやつです。


同じ材質でできた石ころは、蹴ることに少しも躊躇を覚えないのに。


しかし、その「目には見えない何か」への信仰は、神様への信仰の名残なのです。


このまま時代が進んでいけば、必ずこの「目には見えない何か」への信仰までも薄れ、人間の価値観が崩壊する時代がやってきます。


人権も、「神様がそう言ったから」という絶対的な後ろ盾があったから、みんなで守ってこれたのですが、「憲法に書かれているから」では、弱いのです。


そんな一文だけしか無いのでは、やはり「本当は人権なんて無いんじゃないか?」と考える者が必ず現れ、そしてそれに賛同する者が増え、そして憲法が書き変わる日が来ます。


憲法とは、神様とは違い、絶対的な物ではないのです。


絶対的な価値観を全て失ってしまった人間は、これからどこに行くとも分かりません。


何も信じられない、そういう状態になります。


その行き先は、きっと暗い物になると思います。


今回の新型コロナウイルスの感染拡大の事態を見ていても、先ほど話した「自分さえ良ければ、今さえ良ければ」という本能的な価値観の拡大と、目には見えない信仰に基づいた「助け合わなければ」という人間性の価値観の抵抗を、見ているかのような気がします。


今現代は、そうした人類の価値観の過渡期であり、また、正念場です。


今の間に、「神様がそう言ったから」という価値観を、取り戻さなくてはいけない、そう私は感じています。


「神様がそう言ったから、私たちは、助け合っていきましょう」それだけで、世界はとてもシンプルに、陽気になると、私は思うのです。


さて、では、そうした「神様がそう言ったから」という価値観を取り戻すためには、どうしていけば良いでしょうか?


その為には、今一度、この大きな問いに、宗教者が答えていかなくてはなりません。


その問いとは、「神は虚構か?」です。


そもそも、この一連の問題の全てはここから始まっています。


「本当は神様なんて居ないんじゃないか?」


そう考えてしまったことが、世紀末と呼ばれた時代のヨーロッパにおいて、人々の価値観を激変させてしまった、全ての出発点なのです。


私は、この「神を疑う」という行為自体は、悪いことだとは思っていません。


「お母さんの言うことは絶対正しいんだ。言うとおりにしておけば良いんだ」と、いつまでも思っている子どもは、いつまで経っても自分で考える力が育ちません。


「神を疑う」ということは、それだけ人間という種族が、精神的に成長した証なのです。


その上で、ちゃんと自分たちで考える力を持った上で、「本当は神というのは虚構なんじゃないか?」と考えている人々に対して、宗教者は、その問いに答える言葉を持たなくてはなりません。


ちなみに私ならこう答えます。


「神には、虚構の部分と、虚構じゃない部分とがあります」


これは何も、嘘を付いている宗教と、本物の宗教とがある、みたいなことを言いたいわけではありません。


キリスト教の中にも、虚構の部分と虚構じゃない部分があるし、同じように、イスラム教の中にも、仏教の中にもあります。


私の信仰する天理教の中にも、虚構の部分と本物の部分があると思っています。


ここでいう虚構ではない本物の部分というのは、「神様がそう言ったから」と言えるような、「神様が言ったこと」です。


そして虚構の部分と言うのは、人間が、自分の欲望を叶える為に、神様を利用している部分、つまり「神様が言ったことにしていること」です。


まずここをしっかりと分けることが、今後の宗教を考える上で欠かせないことであると、私は考えています。


例えば、世紀末のヨーロッパの人々が、「神様は虚構なんじゃないか?」と考え始めた一つのきっかけになったのは、免罪符の販売です。


キリスト教会が販売した免罪符というのをお金を出して買えば、どんな罪を犯した人であっても、みな罪を許されて、天国へ行ける、というようなことを言い出したのです。


「それっておかしくないか?」


そう考え出したことが、「神様は虚構なんじゃないか?」の出発点です。


そりゃおかしいです。


だって、免罪符は「神様が言ったこと」ではありません。


人間が欲望を叶えるために、「神様が言ったことにしていること」だからです。


これからの宗教家は、ここをしっかりと区別しなくてはなりません。


「宗教は戦争をするから嫌いだ」


そういう意見も、よく聞きますよね。


でも、歴史的に見て、本当の宗教戦争なんて、数えるほどしか無いんです。


この世界で起きてきた多くの戦争の大半は、「あの土地が欲しい」という、人間の欲望を叶えるために行われてきたものです。


しかし、その戦争の大義名分を与える為に、宗教が力を貸してきたのは事実です。


「欲望のために戦争する」と言うと聞こえが悪いですし、兵士の士気も上がりません。


なので、聖戦だということにするのです。


しかしそれは、「神様が言ったこと」ではありません。


人間が、神様を利用しただけです。


そりゃ、現代の人々が神様を信じないのは無理もありません。


「神様じゃなくて、本当は人間が言ってるんだろ?自分たちの欲望の為に。そうやって俺たちを騙してるんだろ?だって今までそうだったじゃないか。もう騙されないぞ」


そう、現代人が考えるのも、当然なのです。


じゃあ、本当に宗教の言っていることは、全てが人間が欲望の為に言っていることだけなのか。


「そんなことはない!」


ということを、私たち宗教家は知っています。


「神様が言ったこと」は、実在するのです。


神は虚構ではありません。


しかしそのことを、すっかり宗教に対して疑心暗鬼になってしまった人々に分かってもらうことは、並大抵なことではありません。


なのでまずは、今までの宗教の中に虚構の部分があったこと、それをきちんと認めること、それをちゃんと反省すること、そして、謝罪すること、そこから始めて、やっとスタートラインに立てるのかもしれません。


もう、「神様が言ったことにしていること」が、人々に通じる時代は終わりました。


もう人々は、神を疑い、自分で考えて行動できるくらいに成長したのです。


しかし、「神様が言ったこと」の力は、まだ失われてはいません。


失わせているのは、我々宗教家です。


そして、その力を取り戻すことが、この人間性の価値観の過渡期にある現代において、何よりも大切なことの一つです。


今、だんだんと失われようとしている、「人権」「人間性」「倫理観」「宗教性」。


そうしたものの力を取り戻し、今一度、社会を明るい方向性へと向かせなおす、そうした役割を、我々宗教家が担えることを、切に願うばかりです。


話が脱線しすぎましたね。


今日の話はここまでです。


次回は、「日本の水際対策は、あれで良かったのか?」という話をします。


乞うご期待。

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