わかりやすい天理教②「天理教の教え」
ここでは、天理教の教えについて、ごくごく簡単に説明をしていきます。
先に「わかりやすい天理教①『宗教としての天理教』」を読んでいただいた方が、用語などが分かりやすいと思います。
ここに書いてある部分だけでは不十分な点もあるかと思いますので、より詳しく正しく知りたい方は、項目別にリンクを貼りましたので、そちらもご覧ください。
天理教が目指しているもの、それは「陽気ぐらし」です。
これは、世界中の全ての人々が、幸せに明るく陽気に暮らしている世界のことで、平たく言えば世界平和です。
また、この「全ての人々」とは、信者に限定されず、非信者も含まれます。
その為、天理教を信仰しないと助からないという発想がなく、信仰は強制されません。
(もちろん、これは教義上のことであり、全ての信者がそれを熟知して徹底しているわけではありませんが)
また、他宗教に対しては非常に寛容で、批判的ではありません。
天理教の教祖である「おやさま」も、「神社やお寺の前を通った時には参拝しなさい。そしてまずそこの神様や仏様の名前を先に唱えてから、後で『天理王命』の神名を唱えたら良い」との旨を仰せられています。
この点について詳しく知りたい方は「⑨陽気ぐらし」をご覧ください。
→準備中
次に、天理教の世界観について説明します。
人間をはじめ、この世界の万物は、親神様が創造されたものであり、また現在においても、この世界のあらゆるものは、親神様の働きによって成り立っています。
これは他の宗教でもよく説かれているような教えですね。
しかし天理教では、そんな神様が支配する世界の中で唯一、神様が支配していない、全くの自由を許されたものがあります。
それが、「人間の心」だと教えられます。
もともと神様は全知全能でしたが、全ての物事が分かり切っている予定調和の世界で、無限の時を過ごすのは、神様にとってもつまらないものでした。
そこで、人間というものを創り、それに心を与え、その心に一切の自由を許す。
すると人間は神様から見ても予想外の行動ばかりをするようになります。
そんな人間たちが、互いに争い合うのではなく、助け合って「陽気ぐらし」するのを見たい、と神様が思われたのが、この世・人間の始まりであると、天理教では教えます。
この点について詳しく知りたい方は「⑭天理教の創世話『元の理』」をご覧ください。⇒準備中
つまり、この世界の全ての物は、それを作り支配している神様の物ですが、人間の心だけは人間の物だということです。
ですから人間は、自分の身体や身の回りの物を「自分のもの」だと思いがちですが、実際には神様のもので、それを神様は人間の心に「貸して下さっている」と言えます。
自分の身体を含め、身の回りの物質一切、また周りの人との縁なども、全ては神様からの「借り物」です。
この教えのことを「かしもの・かりもの」と呼んでいます。
この点について詳しく知りたい方は「⑩天理教の世界観」をご覧ください。
人間の身体が借り物である以上、思い通りにならないことも多いです。
その一つが加齢や死で、そうした事柄とどう向き合うか、というのも古来から宗教の大きなテーマでした。
天理教では死ぬことを「出直し」と呼びます。
生きている限り人間の身体はだんだん年をとって、いつかは使えなくなり、神様にお返しする時がきます。
しかしそれは「古くなった着物を着替えるようなもの」であって、また新しい身体を借りて、この世界に帰ってくるので「出直し」です。
天理教では天国も地獄も説かれていません。
あくまでこの世の中でどう生きるか、ということを主眼にしています。
この点について詳しく知りたい方は「⑪天理教の死生観」をご覧ください。
→準備中
以上のように、天理教では人間の心以外の全ての物を、神様からの「かりもの」と考えますから、人間の心遣いを何よりも大切にします。
また、神様はいつも、人間の心遣いをご覧になっていて、その心遣いに応じた出来事を、神様の支配する「かりもの」の世界の上に表してくださいます。
つまり、私たち人間の人生に起こってくるあらゆることは全て、自分の「心通り」の姿であると、教えられています。
ですから天理教の教えとは、「どんな心遣いをすれば良いか」と「どうすればそんな良い心遣いができるようになるのか」の2つに大きくは分けられると思います。
まず、どんな心遣いをすれば良いか、ということについて話します。
ですが、全人類はある程度「善悪」の価値観を共有できています。
そのように神様が作られたからです。
なので、私たち人間がなんとなく感覚的に理解している「良い」心遣いをすれば良いんだと言っても、差し支えはないと思います。
あえて具体例を一つ挙げるとするならば、「人を助ける心」です。
前述しましたが、親神様は私たち人間を作られて育てられた「親」の神様です。
よって神様から見れば、私たち人間は全人類一人の例外もなく皆が可愛い子どもであり、人間同士は兄弟姉妹の関係になります。
ですから神様も人間の親と同様に、子どもたち兄弟姉妹が、仲良く助け合っていたら嬉しい、いがみあってケンカしていたら悲しい、と思われるのです。
なので困っている兄弟姉妹が居たら、たすけてあげたいと願い、そのための行いを尽くすような心が、神様の何よりのお望みです。
また、悪い心遣いについては、簡単にまとめると「自分中心の心遣い」であると言えます。
しかし、天理教ではそうした悪い心遣いを、決してしてはいけないと戒めているわけではありません。
むしろ、そうした心遣いは、どんなに気を付けていても積もってしまう「ほこり」のようなもので、なるべく使わないように気を付けることも大切ではありますが、それ以上に「心の掃除」をすることの方が大切だと教えられています。
これらの点について詳しく知りたい方は「⑫心」をご覧ください。
→準備中
ではその「心の掃除」とは何なのか、というのが、「どうすればそんな良い心遣いができるようになるのか」という問いの答えと重なります。
なぜなら、天理教では基本的に「性善説」の考え方をするからです。
人間は「陽気ぐらし」ができるように、神様が創られたというのは、既に述べた通りです。
ですから、全ての人間は「陽気ぐらし」ができる性質を、誰しもが生まれながらにして持っているのです。
しかし、人間の心は自由ですから、ついつい自分中心の心遣いをしてしまいます。
それは仕方のないことであり、無くすことはできませんが、そんな小さな「ほこり」が心に積もってしまうと、心がくすみ、汚れてしまいます。
そうしたちょっとした「ほこり」が、病気や事故などの、人間にとっての不幸の原因になると、天理教では考えられています。
ですから、大切なことは、日常的にその心の「ほこり」を掃除することであり、それをすることで、人間の心は本来持つ「陽気ぐらし」の明るさを取り戻し、その心通りに幸せに陽気に暮らすことができます。
この「心の掃除」の方法は、いくつかあるのですが、大きく3つを挙げます。
一つは、天理教の祭儀である「おつとめ」をつとめること。
これは、神様の働きや思し召しを、歌と躍りに表したもので、天理教ではこれを、仏教における念仏やお経を唱えることや、キリスト教における礼拝のように、日常的に行います。
天理教の教会では朝と夕に毎日つとめられ、また月に一度、決まった日に「月次祭」という寄り合いがあり、ここでもこの「おつとめ」がつとめられます。
二つ目は、「ひのきしん」と呼ばれる行いで、簡単に言うと奉仕活動、ボランティアです。
一般のボランティアと違う点としては、「ひのきしん」は、自分の身体は神様からの「借り物」であることを理解して、神様の働きに感謝し、「それならばこの身体を人の為に使わせて頂こう」との思いから出てくる行いである、という点です。
ですから「してあげる」ものではなく、むしろ「させていただく」ものなのです。
天理教ではこの「ひのきしん」を大々的に行っていて、地域の清掃や、また災害時の救援活動などでも多く活躍しています。
三つ目は、「おたすけ」です。
そのまま、人をたすけることです。
その人助けの形は千差万別で、病気を助ける「おさづけ」というものもありますし、生活に困っている人をお世話すること、悩みを抱えた人の話を真摯に聞くことなど、どんなことでも構いません。
ただ、「人にたすかってもらいたい」という心を持って、それを行動に移すことが大切だと教えられます。
これらの点について詳しく知りたい方は「⑬天理教の信仰生活」をご覧ください。
→準備中
以上が、天理教の教えの非常におおまかな説明です。
ここでの説明では足りない点も多々ございますので、各項目の更新をお待ち頂くか、お近くの教会を訪ねてより詳しく教えを聞いていただけますと幸いです。
質問などございましたら、お気軽にコメントくださいませ。