悩み「自分」
自分ってなんだろうなと。
ふと思った。
何故大学に入って
何故その会社を選んで
人生の大事な岐路での選択を考えていると、
自分は何者なのかという疑念が沸沸と湧いてきた。
自分とは。
それを捉えるのに、
私は相対的・絶対的の2点の見方があると考えた。
この記事を通して、自分の捉え方を見直すことでなにか悩みの解決策を得ようと思う。
①相対的というのは
要するに人と比べて自分を認識するということ。
こいつよりできる→優越感
こいつよりできない→劣等感
このようになる。
結局のところ
日常生活で溢れているのはこちらだと思う。
社会という組織に属する以上、
会社内は成果を同僚と比べられる。
学校内では偏差値を比べられて、そこで自分の立ち位置を判断する。
はっきり言って比較が、絶対的判断基準より目に見えて分かりやすいように思える。
とはいえ、その出来高の成果や偏差値というのも
なんだかんだ人が判断するため、人が決めた基準のため、人の主観が入る。
だから相対性もそれはそれで不完全なものだし、
あまり相対性ばかり意識し過ぎて自分の判断基準を見失なっては精神衛生的には良くない。
でも相対性が自分を認めさせてくれる時があるのは事実。
②絶対的というのは
比較せずとも
ある基準が明確に決まっていてそれに従って捉えるということ。
例えば方角がこれにあたる。
個人的に、絶対的に自分を捉えていると思うのは
自分の明確な意思基準で動いている人ではあるが、
その意思基準の殆どが自分にみせかけて、自分のプライドを保つためだと感じる。
となると、自分のプライドは人との比較だったり、ヒエラルキー、カーストなどと現されるような相対的に認識された金・名誉・地位の産物であることが多く完全なる絶対的基準ではない。
また社会にいる以上、ある程度人との交流の断絶は不可能なので適応能力が求められる。
そのため、ただ絶対的意思基準を貫くというだけでは生きられない。
それでも自分の絶対的意思を貫くとするためには自分が変わるのではなく世間がそれを受容することが求められる。
だから自分の絶対的意思が明確で変えられないけれど悩んでいるなら
相対的にみて何か一つずば抜けた能力を得るのか、
絶対的にみて組織が自分を受容するまでそこに居続けるか、受容する組織を見つけるのか、
そんなあたりかなと感じる。
逆に相対的基準で過度に悩んでいるなら
それは能力の高低が起因していることが殆どではないだろうか。
能力とはいっても全てにおいて人より特化していることは稀だし、その能力を得るのに人より多くの犠牲を払っているだけ案外凡人であったりもする。
能力の高低で悩んでいるとするならば
やっぱり能力を身につけるため、なにか一つでも人より優れた能力を得てそれを横へ広げていくか、
はたまた能力以外の判断基準を持つか。
例えば全て愛するということ。
人は愛さない基準を持ってしまうと、自分のこの部分は認められない、他人のこの部分は嫌いだとなる。顔がイケてないとか、ここは優れていないとか、制限付きの愛に縛られてしまう。これが何を意味するかというと、結果として自分を批判する障壁となり、後々の自分を苦しめる原因となってしまう。
ただ全てを愛するという基準で捉えてみることで自己肯定感を持つことになり自信が出来ていく、また愛されることが嫌なひともいないのだから、気持ちの良い考えだと思う。
愛するまでいかなくても、認めるだけでもいい。それでも少し楽になる。
私が思うに
相対的でも絶対的でも
どちらも正しい判断基準であっていいし、
だからといってどちらも不完全な点がある。
またどちらも絡み合ってこの社会は出来ていると思えてきたし、自分が好きなように進めばいいかなと。
あとね、休職して少し休んでみて思った。
考えることもなく全力で突っ走ってしまったなと。
今までの選択はその時の自分の全力で考えた結果だけれど、やっぱり後悔がある。
大学の専攻や就活は興味が無かった訳ではないけど、なんとなく尊敬されるからとか、難しいからとか、自分の本来のやりたい意思とは関係なく決めていた。
そして今しわ寄せがきて、使命とか重苦しく考えて、自分を見失ってしまった。
ただ本当に後悔すべきなのか?
自分の不幸を思ってのその選択肢ではないはずだった。
その時々の全力の選択だった。
選択肢に対して
結果が分かれば幾らでも理由は後付けできる。
選択を決断した自分は多くのプラスイメージをもった理由を想定していたはずだ。
結果が分かった自分、つまり未来の自分はそこでやっと選択肢の良し悪しの理由を明らかにさせる。
じゃあどうするかというと、
当たり前に
過去の選択を良く捉えるのも悪くするのも自分次第で、過去に未練を持つのはやめた方がいい。
過去を良くさせるのは今の自分だ。
好きなことをして生きてそんな自分を好きになるっていう単純な考えでも良い。
悶々と行き悩んで息苦しさを抱えることもある。
ただ私達は生きるという課題のなかで、
日頃選択肢を与えられていて、
生きるも死ぬも自分の選択だろう。
ただその選択を決めた自分の責任は感じるのは辞めて、過去を認めよう。
過去を認めてそれを活かさないと、
いつまでもその障壁を超えられない。
いつも同じ壁に当たっていないか。
もっともっと本来の自分を認めてあげられたら、こんなに苦しまなくてよいのだから。
私は全て受け入れたい。
それが酷く困難を生んでも。
そして信じたい。
今の自分は自分が出来る最大限の自分なのだ。
そして、人との比較ではなく、自分がみにつけたものでしか自信は得られない。