東日本大震災を学び、被災地の今を知る
本プロジェクトでは、緊急事態宣言の解除を受け、10月・11月と感染症対策を講じながらフィールドワークを実施しました。
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今回の記事では、10月に行った宮城県でのフィールドワークについて、どのような視点でコーディネートをしたかを綴ります。
フィールドワーク行程 @宮城県
10月25日
10月26日
その地を知り、災害を知る
「避難所の衛生ストレス解決」プロジェクトという名前にもある通り、本プロジェクトは「避難所」の「衛生面」において役立てるモノづくりを目指しています。
フィールドワークにおいても、その点だけにフォーカスして訪問先やヒアリング内容を絞り、いわば”近道”をすることもできたと思います。
しかし今回は、まずは災害そのものについて学ぶ行程を飛び越えずに組み込みました。特に、今回は被災地と呼ばれる地域に足を踏み入れるのが初めてのメンバーもおり、東日本大震災の避難生活から学ぶにあたり、まずは東日本大震災がどんな被害をもたらしたかを、その地に立って感じることが必要だと考えました。
私自身も含め、「避難生活」と聴くと「非日常」であり画面越しに触れる物事というイメージがぬぐい切れないところがあります。しかしそうではなく、災害や被災後の生活が自分たちの今の生活と地続きであることを感じる必要があると考えたのです。
”震災前のまちの様子が分からないと、その場所が「更地」に見えてしまう”
地域の外から訪問する私たちの目には、津波被害のあった場所が時にこのように映ってしまうことがあります。
しかし現在、東日本大震災の被災地では多くの震災伝承施設が作られており、そこでは災害の恐ろしさや備えの大切さに加え、震災前の景色・暮らし・文化、そして現在どのようなまちづくりが行われているかを詳細に展示してある施設もあります。
震災前の景色や、そこに確かに暮らしや文化があったと知り体感したうえで災害を学ぶことで、「もしかすると自分の身に起きていたかもしれない」と当事者感覚により近づきながら今後のプロジェクトを進めていけるのでは、という期待もありました。
(避難所だった場所に座ったり寝転がったりしてみることで、床の感触や広さ・狭さを感じる)
まずは生き残る
9メートルの津波が襲った仙台市荒浜地区にある震災遺構 仙台市立荒浜小学校では、「津波から逃げ生き残ること」について考えました。
地震発生以降の出来事を時系列で振り返ったドキュメンタリー映像が上映され、地震発生後、地域の人が避難してくる様子、津波の来襲、屋上への避難、そして翌日救助されるまで―当時の映像や、先生方、町内会の方々のインタビューを交え、緊迫した状況を知ることができました。
といった言葉に、海のすぐそばに住んでいる私は改めて気が引き締まる思いをしました。
(震災遺構 仙台市立荒浜小学校にて)
「『防災』は、生き残ってこそ意味がある」
2018年の西日本豪雨災害の際、広島県内で出会った方がおっしゃっていた言葉です。
避難生活へ備えた防災グッズも、発災時に自らの命を守る行動をとり、生き残ってからでなければ役に立つことはありません。
今回のプロジェクトも、「避難生活における衛生環境の向上」に主眼を置いていますが、その前に災害や避難行動について学ぶことも重要だと考えます。
(宮城県名取市閖上地区にて)
10年の時を経て伝えてくれること
東日本大震災から10年が経ちました。
私自身も2011年当時から数えきれないほど宮城県の沿岸部に足を運びましたが、今回が久しぶりの訪問でした。そこでは、かさ上げされた新しい道路、新しい街、防潮堤、災害の爪痕が遺構として整備された場所、追悼の場である公園などのメモリアル施設、災害伝承施設…様々な変わりゆく景色を見ました。
その景色を見て「復興してきているんだな」と確かに感じた一方で、こんな話も聞きました。
震災遺構やメモリアル施設の整備により、私たちのような外からの訪問者は、災害を学ぶ場所として被災地を訪問しやすくなったように思います。例えば、被災地での写真撮影にはかなり慎重に考える必要がありましたが、現在遺構として整備された対象物には、カメラのレンズを向けやすくも感じました。ただ同時に、その場所に想いを持つ数多くの方々の存在を忘れてはいけないのだとも強く思いました。