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宇崎ちゃん問題から正義と愛を考える

とても高尚なタイトルになってしまった。

献血ポスター問題について、先日久しぶりにnoteを書いた。その時には献血ポスターの問題は世代間によるエロ文化の違いも起因しているのではないかと論じたが、どうやらそれだけでは不十分のようだ。
この問題は性的な要素(エロいかエロくないか)だけではなく、やはり人権だとかフェミニズムの問題が絡んでおり、要因を一つに絞ることは難しいと感じる。ただ、この問題から二つのことを考えさせられることが出来るのでせっかくだから書いておきたい。

宇崎ちゃん問題から考える「正義」について

さて、改めて宇崎ちゃんの問題について原点となるツイートを見てみたい。

環境型セクハラという言葉が出てくる。「セクハラは良くないもの」という認識は現代社会における我々には共通の認識と言っていいだろう。
セクハラとは何か?という問いに関しては相手がセクハラと言えば、それはセクハラになる。極端な言い方をすれば、異性を見ただけでセクハラになる場合もあるらしい。理不尽かもしれないが、企業勤めとしてはそのような教育をなされる。

しかし、宇崎ちゃん問題に関しては誰か明確な相手がいるわけではない。公共の場にこのようなポスターを置くことが、「誰か」にとって苦痛であり、また「誰か」の人権を侵害している可能性がある、もしくは助長する。と、ポスター否定派は言う。特にこれまで抑圧されていた女性に対して、性的消費を助長する復権運動に成りかねない。だから、撤去をした方がいい。ゾーニングを徹底するのが正しいと言う論が成り立つ。

さて、一方で擁護派は表現の自由を用いることが多い。服を着て巨乳であれば、性的であると言うのは表現の自由を侵害していると言う。何より様々なフェチシズムを理解している人間にとっては、人によって趣味嗜好が異なることを知る機会が多い。そのため、何か一つを規制すればドミノ倒しのように何もかもが規制されることを危惧する。そのような管理社会はデストピアであり、嗜好の規制は思考の規制にまで繋がると想像する。そのため、安易な規制には反対すると言う論が成り立つ。

こう見ると、両者の主張はどちらも反社会的な意見ではなく、社会的な意見であることがわかる。正義と悪の戦いではなく、「正義」対「正義」の戦いと客観的には見るのが正解なのではないだろうか。
本来、このような正義同士の戦いの際には我が国の日本国憲法に沿って判断を下すべきなのだろうが、どちらの主張も明確な法的な優位性を下すまではいかない現状であると思う。
つまり、解決をするためにはお互いの立場から議論を重ねて、新たな価値観や正義を見つけ出す作業が必要になるのだが、このインターネットの世界では自身の正義が正しいと主張する人が多く感じる。

相手の主張を間違っていると断じて、自身の主張を正義とする行為の際たるものが戦争だ。戦争をすることが正義だと思う人もいるだろう。しかし、戦争は多くの人を傷つけ、後世にまで負の遺産を残す行為である。人類という種が存続する上で長い歴史の中で獲得した生存戦略である「社会性」を傷つける行為であることは間違いがないと思う。

まずは冷静な議論を、そして新たな解決策を考えることも社会にとってはまた一つの「正義」だ。自身の正義にとらわれ過ぎないことは必要であると感じる。

宇崎ちゃん問題から考える「愛」について

さて、正義の話を多くしてきたが人間は正義だけで生きていくことはできない。どれだけ自身が正しくても、人は一人では生きていけない。そのために、人間は社会を営み誰かに助けられ、また誰かを助けて生きていく。
誰かを助けるという行為について、例えば障害者の生産性を例にして、そうではないと言う人たちがいる。しかし、個人的にはそれは間違いであると思っている。誰かの助けになるとは生産性の問題ではない。人類が種として存続してくためには多種多様な遺伝子を残していくことが最適解であり、それを実現したのが社会性になる。
詳しくは以下のYahoo!知恵袋を参考にしてほしい。

極端な言い方をすれば、生きているだけで我々は人類の生存戦略に貢献している。そして、お互いに助け合うことを「社会性」と言い、便宜的に愛と呼ぶ。つまり、愛とは理想論の中にある何某ではなく、我々が生きていく中で自然に行なっている行為に他ならない。
具体的な行動例を見ると「献血」こそがそれに該当する。あくまでも利他的な行動によって救われる命があるわけだが、実際の社会生活の中で我々は類似した行動を取っている。法律を守って生きるというのも、ある意味ではそうだ。

なぜ、こんなにも愛を語るのかと言えば、この宇崎ちゃん問題の議論に愛はあるのか? すなわち社会性を持った議論になっているのかという前述した問題があるからだ。

冒頭に記載したツイートでは、確かに女性の人権を守るための正義を見ることはできるが、やはり攻撃的な側面があるように思う。
一方で、ポスター擁護派の中には太田弁護士の過去の発言を拾い集めて、思想的な批判や人格攻撃を行う人間もいる。
議論が進まないから、相手の主張の信頼性を失わせるような行為は愛からはかけ離れていると感じる。

改めて言うが、愛を持って議論することは理想論ではない。
我々の祖先が培い、残してくれた社会性を保つための人類の本能的な手段の一つである。元来、持っていた暴力という本能を数千年かけて変えてきた叡智であると思っている。
それを損なわせるような主張の仕方は、否定派であれ擁護派であれ、議論の仕方を変える必要性を感じる。

最後に

さて、こういった話をすると結局どちらが正しいだとか、どちらの立場を取るかが難しくなる。しかしながら、双方を否定するような言葉を使ってしまったからには自身の考えも表明したいと思う。

個人的な心情としては、この献血ポスターについて性的とは思わない。しかし、これを性的と捉える人が多数いるのは理解できるので控えた方が良いのではと思う。

ただ、抗議ではなくあくまでも提案の立場をとる必要がある。
なぜ、これが性的な側面を持つのか、それがなぜ女性の人権を侵害してしまうのかを丁寧に説明した上で理解して貰う努力は必要だと思う。時に圧倒的な権力の前には暴力的な言葉を使い、革命を起こさなければならない状況があることも理解はしている。しかし、それは今回の場合には当てはまらないと思う。

これが、性的な側面を持つことは理解できるが、先日語った性的文化の違いによっては、性的と見ない人もまた多くいることが容易に想像できるからだ。
また、表現の自由を危惧する人間の立場を慮ると、否定をすることが彼らの危惧を現実味を増すと認識させると思うからだ。

禁止ではなく自粛を提案する。そして、意見が受け入れられた時には感謝の意を述べる。こういった問題に関しては、その行動が必要であると感じている。

仮にデジタルネイチャー世代が全員後期高齢者に入り、このポスターが誰からも性的と見られない未来もひょっとしたらあるかもしれない。その時は、また後世がその時に議論を重ねて、復権させるかやはり自粛させるかを決めればいい。

ただ、我々が必ず伝えなくてはいけないのは「正義」対「正義」の議論をする際は「愛」を持って行う必要性だと思う。

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