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イシナガキクエを巡る35の謎(その4)

【注意】本稿は『イシナガキクエを探しています』全4話の視聴を前提で書いています。ネタバレにご注意ください。


【補足資料】
『イシナガキクエを探しています』年表
『イシナガキクエを探しています』語集


[Q.22] 《乙への手紙》は何を意味しているのか?

[A.22] 稲垣乙の不調(延いては、キクエの呪詛が稲垣家にも影響を及ぼしていること)。

稲垣乙の息子・義一が彼女の遺品の中から発見、番組に提供した《乙への手紙》。公開されたのはあくまで一部、数枚綴りの最後の一枚である。
以下、その全文。

もう、そこにはありませんでした。

追伸。■■■■をご存じでしょうか?
稲垣様がもし無理であれば今回は
そちらに処理を頼もうと思っていますが
信用できるか分かりません
(二行に渡る長い伏字。■■■■の住所など、個人的な情報が掲載されているので伏せられたか?)
稲垣様の見解をお聞きしたいです。

米原実次

まず、文章の冒頭「もうそこにはありませんでした」とは、一体何を指すのだろうか。その前に続いていた文章の結びであることは確かだが、肝心のそれが判らない。「ありません」ということは、人ではなく物が失われているという事である。そしてここまでの経緯から思い当たる節が幾つかあるが、それに関しての考察はあえて今は保留する(次章で後述の予定)。

そして、この手紙に登場する■■■■という存在も謎が多い。音声、表記共に編集で伏せられているため、それが団体なのか個人なのかすら定かではない。判ることと言えば、稲垣乙と同様に何らかの霊能力を有していること、そして(少なくともこの時点では)米原実次から完全に信用されていないことくらいである。
それ以上に気になるのは、米原実次が何かの切っ掛けで■■■■の存在を知ったのか、逆に■■■■の方から米原実次に接近してきたのかという点だが、推理できる材料がないのでこれも保留する。

この手紙から確実に推理できる最大の異変は、稲垣乙についてだ。
まず、恐らく稲垣乙はこの時点で自宅には居ない。もし今まで通り在宅であれば、書簡ではなく電話で連絡を取るはずだからである。そしてもう一つは、稲垣乙はすでに霊能者として万全の状態ではないという事。そうでなければ、処理の代行を相談したりはしないだろう。
以上の点を踏まえると、この時点で稲垣乙は何処かの療養施設にいた可能性がある。彼女の年齢が米原実次とさほど離れていないことも踏まえると(50~60歳くらい?)、何かしらの病に臥せっていたことも想像できる。それは即ち、キクエの霊障が米原家だけでなく稲垣家にも及び始めていたことを意味するのではないか。
その疑問を紐解く鍵となるのが、彼女の息子である義一の存在である。


[Q.23] 稲垣義一とはどんな人物なのか?

[A.23] 稲垣乙の息子だが、霊感は皆無で母の仕事に関してもよく知らない。現在は独り暮らしだが、かつては米原実次同様に家庭を持っていた可能性がある。

番組の後半から登場し、米原実次の足跡の手がかりとなる記録媒体(母の遺品)を提供したのが、稲垣乙の息子である義一である。

山間に建つ稲垣邸は、米原邸とは「離れた地域」にあるとされているが、具体的な距離に関しては触れられていない(それでも同県内ではあろう)。
米原邸に比べると、豪邸とまでは行かなくともかなり広く、近代的な造りの庭付き一軒家である。
しかし、その外観はゴミ屋敷というほど荒れてこそいないが、お世辞にも管理が行き届いている風にも見えない。庭には鉄屑や廃タイヤ、金属製ワイヤー、プラスチック製のケースなどが乱雑に積まれており、軒には台秤(だいはかり)が置かれている。そんな敷地に軽トラックで乗り入れていることなどから、個人で解体業かリサイクル業を営んでいるようにも推理できる。また、邸内も同様に広さを持て余したが故の散らかり方をしており、日常的に誰かを招き入れているような気配も感じない。

義一は霊媒としての稲垣家の家業を一切継いでいないと思われる。母の仕事について問われても漠然と答えるのみで、知識も興味も無さそうである。[Q.02]で稲垣家が巫女の家系である可能性を説いたが、そうだとしたら母の乙が意識的に霊媒の仕事から(霊能者として芽が出る可能性のない)義一を遠ざけ、関わらせないようにしていたのかもしれない。米原実次と面識がない事からもそれが伺える。固定電話の番号が当時と変わっている(あるいは解約している)点からも、霊媒師時代の繋がりを清算していると見て良いだろう。

本編中、番組スタッフの不躾とも言えるアポ無しの取材に、義一はやや戸惑いつつも応じる。その際「一人で住まわれているのですか」と問われた義一は、やや言い淀んだ後に「一人というか……まぁ、一人です」と苦笑いを交えて答えている。これは何を意味するのだろうか。音声と映像からペットが居るようにも見えず、かと言って疚しい何かor誰かを隠しているようでもない(でなければ初対面のスタッフを自宅に入れるだろうか?)。

ここで一つの可能性が出てくる。稲垣義一は元々、妻帯者だったのではないか。もしかしたら子供もいたのかもしれない(稲垣邸の冷蔵庫にリラックマと思しきイラストの何かが貼られている)。家族で住んでいたのであれば、あの家の広さも合点の行くものになる。乙の健在と同居の可能性も込みで考えれば猶更である。
義一の家族が(居たとして)どうなったのかは判らない。米原実次の家族同様に、事故や病気という形で呪詛の毒牙に掛かったのか。あるいは何らかの霊障を恐れて稲垣家から出て行ってしまったのか(義一の左薬指に指輪は無かった)、いずれにせよ憶測の域を出ない。

確かなのは、あの広大な家に義一がたった独りで、今も住み続けている事実だけである。


[Q.24] 稲垣乙はいつ、何歳で亡くなったのか?

[A.24] 2010年代前半頃、推定70歳代。

稲垣乙に関しては故人である事が語られるのみで、彼女が何歳で亡くなったかは言及されていない。しかし、彼女の年齢、延いては死亡時期を割り出すことはイシナガキクエ復活後の【空白の20年】を考察する上で極めて重要な意味を持つ。
そもそも彼女はいつ頃生まれたのだろうか。米原実次は1940年、稲垣クシエは1947年にそれぞれ生まれている。《遺品の8mm/VHS》の不鮮明な映像から判断すると、乙と実次はそれほど歳が離れていないように見える。間を取って、乙は1943年頃に産まれたと仮定しよう(つまり、乙はキクエの姉という事になる)。
では、いつ頃亡くなったのだろうか。乙のポートレートを見る限り、少なくとも70歳前後までは壮健だったことが伺える。この事を踏まえると、[Q.22]で触れた【乙が体調を崩した時期】は2013年頃、今から約10年前ということになる。これは後述する【米原別邸が廃墟化した時期】と重なる。

つまり、キクエ復活からの少なくとも10年は、米原実次と稲垣乙が以前と同じく共闘できる状態にあったという事になる(かつてと同様の対応が出来たかは別として)。それは同時に、稲垣乙の死去後の10年は米原実次がキクエへの従来の対抗手段を失っていた事も意味する。


[Q.25] 稲垣乙の死後、米原実次はどうやってキクエに対処したのか?

[A.25] かつてのように《処置》による封印が出来なくなったが、少なくとも目撃情報の収集と写真の撮影は継続していた。

これに関しては本編中の情報や判断材料が極端に少ないため、考察が難しい。
それでも、実次が放置を決め込まなかったことだけは確かだ。その証拠に、米原実次は《尋ね人のチラシ》を配布し、現在に至るまでキクエの目撃情報を募っていた。書かれている連絡先が米原実次の物になっていることから、チラシが作られたのは稲垣乙が死去した前後=約10年前だろう。また、取材中の米原実次が外出時にデジカメを携行している姿が確認できることから、キクエの撮影も継続していたようである。
しかし乙が不在である以上、《処置》と《処理》によってキクエを再び封印することは出来ない。それでも捜索と撮影を続けていたという事は、それらの行動がキクエに対して一定の意味と効果(一時的な呪詛の抑止など)があるのを判っていたのではないか。

ここで気になるのは《乙に宛てた手紙》で触れられていた■■■■の関与の有無であるが、本編を観る限り稲垣実次の活動に誰かが協力していたような痕跡はない。結局、実次は■■■■に頼らずキクエを捜し、撮影していた――延いて言えば、たった独りでキクエの呪詛を抑え続けていたことになる。


[Q.26] 米原実次は何故、キクエの写真をチラシに添付しなかったのか?

[A.26] 変わり果てた恋人の姿を晒したくなかったから。

米原実次はイシナガキクエの写真を所持しているにも関わらず、それを《尋ね人のチラシ》に添付しようとはしなかった。目撃情報を募るという目的に対してマイナスとなる選択を、何故取ったのだろうか。
キクエの写真自体が非常に不鮮明であり(特に顔)、添付してもあまり意味がないと判断したから……と考えることができる。正真正銘の心霊写真を添付することが見る者に霊障を及ぼす危険があるから、と考えることもできるだろう。
しかし、個人的にはこう想う。米原実次は単に写真を見られたくなかったのではないか、と。
想像してみてほしい。手元に残された恋人の唯一の写真が、かつての面影を失った幽鬼の姿を写す物だとして、あなたはそれを誰かに見せようと思うだろうか?


[Q.27] 何故、近隣住民は米原実次のことをよく知らないのか?

[A.27] 元々、米原家は離れた別の場所にあった。

半世紀に渡って一人の女性を探し続ける米原実次を、近隣住人が【妄想に囚われた哀れな独居老人】としか見ていないのは本編の映像から明らかである。周囲の無関心と冷たい眼差しに晒されながら、老体に鞭打つ実次の姿は心が締め付けられるものがある。
しかし、考えてみてほしい。仮に[Q.11]で触れたように、かつて地元の名家だった米原家が急速に没落し、なおかつ組織や家族が相次いで不幸に見舞われていたとしたら。それに纏わる有象無象の噂が立って然るべきではないか? 例えば「あの一族は呪われている」「●●を穢した祟りだ」「怪しげな祈祷師と繋がりがある」……そういった田舎特有の妬み嫉みも孕んだ噂は、しかし住人の口からは出て来ない。まるで米原実次が最初から哀れな独居老人だったかのようである。

もしかしたら米原家は、元々別の場所にあったのではないか?
例えば、米原邸から15km離れた《池》、あるいは稲垣家の近隣。[Q.13]でも言及したように、米原家がかつて所有していた土地の中に山も池もあったとすれば、処置と処理を行っていた場所に関しても合点が行く(ただし、池と稲垣家が隣接しているという描写は本編中になく、後者に関しては「現在の米原家から遠く離れている」としか言われていない)。
1990年代のキクエ復活に伴う米原家の急激な衰滅、その後逃れるように現在の米原邸に住まいを移していたとしたら。周囲に多くを語らず、親しく交わろうともせず、ただ淡々とイシナガキクエを探す日々を米原実次が送っていたとしたら。近隣住民の様子も至極、納得の行く物となる。


[Q.28] 何故、米原実次は番組スタッフに《イシナガキクエの写真》を見せたのか?

[A.28] イシナガキクエ(≒稲垣クシエ)の存在が妄想ではないことを証明するため。

[Q.26]で触れた通り、米原実次はキクエの写真を他者に見せることを徹底的に忌避していた。それは自身を密着取材をしていた番組スタッフに対しても同様で、当初は「キクエの写真は無いよ」と偽っていた。
その姿勢を崩したのが2024年1月下旬。近隣住民や警察への聞き取りなどからキクエの実在を疑い始めたスタッフは、言葉を濁しながら米原実次にその旨を伝える。それに対して、実次は憮然とした調子で「……で?」と問い返す。怒りさえ滲ませる実次にたじろぐスタッフ。そして制作側が(一定の誠意を持って)捜索をしているのを確認するような質疑の後、思い詰めた表情の実次は自宅の奥に隠していた一葉の写真を「キクエ」と差し出す(※)。
変わり果てた恋人の姿を晒すことは躊躇われた。だがそれ以上に、キクエ(≒稲垣クシエ)の存在を【独居老人の妄想】として片付けられるような結果だけは避けなくてはならなかった。故に苦渋の決断として、実次は《イシナガキクエの写真》をスタッフ達に見せたのだろう。

実次が焼身自殺を図るのは、その2週間後である。

(※)裏面にはナンバリングが施されていないが、キラフが発見した《不気味な写真【11】》と姿、風景共に酷似している。写真自体も非常に古いことから、70年代前半に処理したキクエ【11】を撮影した際の別テイクを実次が隠し持っていたのではないか。


(その5)へ続く。

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