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Life is trial.

いつも持論を展開しているが、今回も持論を。飽きないでね。

トライ

僕は人生の折り返し地点で身も心も0になった。

孤独と引き換えに自由を手に入れたわけだ。

さてこの時間を何に使っているのかと言うと、結婚生活の時と同じく日々のルーティン以外はトライに使っている。

ここで言う”トライ”とは、どんなことでもピンときたら”まずはやってみる”こと。

僕は新しい”コト”に出会ったらとりあえずやってみる。触れてみなければそれが好きなのか嫌いなのか判断できないからだ。時々やってもいないのに嫌う人がいるが、触れていない=判断材料の無い状態で”コト”を嫌うことはできない。

昔は山に生えているキノコが食用可能なのか毒があって食用不可能なのかは、実際に勇気ある人が食べてみないと判らなかった。今となってはスマホで調べれば何でも情報をつかむことはできて、わざわざそのような冒険をする必要も無くなったが、こんな便利な時代になっても僕は根本は変わっていないと思っている。体験は必須だ。

確かにスマホでネットを開けば、”コト”に対する情報がどんどん出てくる。

ただ、出てきた情報は決して正しいとは限らない。なぜなら、ネットに出てくる情報は自分の体験に裏付けされていないもので、極めて不確実性が高いからだ。

野球の試合結果を知りたい、パエリアの作り方を知りたい、といった結果を調べる際は非常に役立つが、”コト”を知る際の情報としては効果がかなり薄くなる。

確かに”コト”を知る上で情報は判断材料の一つになると思っているが、あくまで材料の一つ。その材料をどれだけ集めても材料は材料、体験には絶対に勝てない。

”コト”を知る上で決定的な判断材料は”自分で体験すること”、これ一択なのだ。


脳内整理と”興味”


今となっては僕の生活に密接にかかわっている釣りも昔は嫌いだった。幼少の頃、父親とサビキ釣りをしていて、僕が投げた仕掛けの針が姉の服に刺さったことがあった。親父は当時酔っていたこともあって僕に対して激怒し、ビビッて逃げる僕にワンカップの瓶を投げつけて僕は足を大ケガした。ごめんなさいと泣き叫びながら親父から逃げて、足元でワンカップの瓶が割れた音は今でも忘れていない。この”コト”がトラウマとなって僕は釣りを嫌いになった。

しかし数年前に会社の先輩に釣りに誘われた時、最初は敬遠していたが少しだけ脳内を整理して考えてみた。

そうだ、よくよく考えてみたら昔のようにサビキをオーバーハンドで投げなければ他人の服に針を引っ掛ける事も無いし、ワンカップも今はペットに変わっている。そもそも酔っぱらった親父と海に行くわけでも無いなら、トラウマを払拭された状態でも敬遠する必要があるのか?釣りの行為自体は楽しかった記憶があるのだから、もう一度再開して考えてみよう。それでも楽しくなければ辞めれば良いという結果に至った。今では釣りが僕の人生の大きな部分を占めることになっているし、心の安定の拠り所となっている。

僕はこうして自分の脳内を整理することで釣りを再開することになったのだが、元嫁さんとは一度も釣りに行かなかった。ずっと誘っていだが、釣りが嫌いという理由で断られていた。しかし彼女は別に釣りでイヤな経験をしたわけでも無いし、そもそも僕が知っている限りで彼女は釣りをしたことが無い。

彼女は未体験の”コト”にどうしてそこまで嫌いになれるのか?

”興味”だ。

彼女は”自分で海に行って、自分で仕掛けたツールで魚を釣って”調理して食べる、このダブルクォーテーションで括られた部分に”興味”が無かったのだ。なるほど、合点がいった。確かに”興味”の無いものは手を出さないし、行動しない。どんなにその”コト”が自分にとって有益なものであったとしても、そこに”興味”が無いと”トライ”は生まれないのだ。

ではその”興味”はどうして生まれるのか?

僕にはその明確な答えは未だに分かっていないが、一つだけ分かっているのは何でもやってみないと”興味”は生まれないということ。

先述の文章と多少食い違っているようにも思えるが、これは誰しも経験していることだと思う。

身体を絞りたいと思ってジムと契約したとしてもいざ通うとなると億劫になってしまう。なかなか玄関を出ることができない。しかし、その心を無理矢理奮起させて行ったジムでのトレーニングが意外と楽しい事に気付いて通うことになった。この類の経験ってあるよね?

これは一時期身体を絞りたいと思ってジム通いしていた僕の実体験だが、多少イヤだと思っていてもやってみれば実は楽しい、有意義な思いをすることは往々にしてある。

”興味”→”体験”もあり得るが、”体験”→”興味”も十分にあるということ。

体験の大切さ

体験は非常に大切だと心から言える。

2度の受験失敗とテキトーに選んだ大学で、入学から半年で留年が決まって卒業できないと判った僕は、色々な職種でアルバイトしてみようと思った。奨学金で大学に行っていたため5年目の大学生は無いと判っていた。しかしせっかく与えられた学生生活、この有り余った時間を全て活かさないと生きていけないと若者ながら悟った。

出席するだけで貰える単位よりも体験を優先した。

以降、3年半の時間全てをアルバイトに注ぎ込んだ僕は、朝まで営業している居酒屋、自動車部品製造の派遣社員、地方紙配達、引っ越し代行、ガソリンスタンドと色々な所で働いてみた。毎日朝から夕方まで学校に拘束されている大学生がやれない職種をすすんで選んだ。そこで体験を積み上げながら僕に適している職種が何なのか?興味を持てるものは何なのか?を探し回った。

その結果、普通の学生ができないことも体験できたし、普通の生活をしていたら絶対に見えない世界も見ることができた。自分に向いている職種も見つけることができたし、就職しても月並みなアドバイスしかもらえず悩んでいる部下や派遣社員の相談事に親身になって応えることができた。

家庭生活においても、僕は大学生活の体験が無かったら僕は子どもが大学受験で悩んでいた時もアドバイスできなかったと思う。子どもが大学受験に2度失敗した時に、自身の2度の失敗と、その先で更に選択ミスから彼にミスしない選択をさせた。正直、僕以外の周囲にいた人たちは心配こそしていたものの、誰も的確なアドバイスができない中、僕だけが彼にアドバイスすることができた。これは紛れもなく体験からくるもので、どんなに調べてもネットには書いていないものだ。

こうして部下や家族から絶大な信頼を得ることで13年間結婚生活ができたこと、周囲のおかげももちろんあるが、本当に自分の”興味”と”体験”には感謝している。

最後に


確かに僕も分からないことがあればスマホで色々と調べて情報を得ることもあるが、インプットは必ずアウトプット=体験することにしている。

行動に勝るものは無い。

当時はイヤだった”コト”も今では意外と好きになっていることもある。


だからなんでもやってみる。

だからやってみて判断する。

ムダなことはしなくても良いと言う人もいるが、体験や経験にムダは無い。役に立たない体験や経験もあるかもしれないが、役に立たないかどうかは身に付けてみないと判らないものでもあるし、仮に身に付いた経験や体験が実生活に役に立たなくても最悪酒の肴にはなって、その日の笑い話にはなる。

普段は効率や合理的に物事を考える僕だが、人生をヒマ無く過ごすためにも少しでもピンときたものは何でもやってみた方が良いと思っている。

だから、今日も何かやってみようと思う。

おまけ

いつも読んでいただき、本当にありがとうございます、ひとりーまんです。

体験や経験は非常に大切、多少興味が薄くても一回やってみるということは本当に大事で、そこから人生が一変したという人もいます。


安心安全も大切なことだとは思いますけど、安心安全を選び過ぎたが為に安心安全から遠ざかってしまうという経験もしました。

何が正しい・何が間違っているなんてありません。結果はコントロール不能なもので僕たちができる最低最大限はやるか・やらないか、それだけだと思います。


コントロール不能な結果にビビらず、何でもやってみましょう^^ 

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