Life is blind.
Life is blind.
昔の本か映画にLove is blind.というタイトルのものがあったが、それを少しばかりパクらせてもらって、ここはLife is blind.というタイトルで書こうと思う。
これは僕の人生でトップ3に入る程の失敗で、読者の方には是非、真似して欲しくない内容となっているので最後まで読んでいただけると嬉しい。
本題に入る前に、私には自分の家族がいた。10歳上の嫁さんに子ども3人。上2人が連れ子だったがサッカーネタで盛り上がったのもあって、結婚まではそれぞれ仲が良かった。
だが、結婚して13年、別れてしまった。
これ以上変なところを深掘っていっても何も出ないので、僕視点で見た失敗を挙げていきたい。
金に盲目
幼少期よりなかなか貧乏で、高校生時代の多感な時期にも姉のおさがりトレーナーを着て過ごしていた僕は、その様な生活を子どもにさせたくないと必死で働いた。
その甲斐もあって、上2人にはサッカースクールと塾に、娘にはピアノを習わせてあげても自分のお小遣いをもらえるほどまで稼げるようにはなった。
しかし、実際には稼いだ分、ほとんどが溶けて消えていっていた。
通帳の管理を嫁さんに任せていたから嫁さんのせいにしたいわけではないが、僕が無関心過ぎた。
今となっては当たり前になりつつある積立式の投資や節税制度、当時でも調べればヒットしてきたはずなのに、それを僕は怠って"これくらい稼いでくれば問題無いだろう"とタカをくくって稼ぐことに没頭した。
更には良い父親、良い旦那さんでありたいと自ら言い訳を作って自分含めて家庭に関する事に散財しまくった。
今だからそ分かったことだが、全ては僕の見栄のためだった。
リアルな話で家庭の手取り月収が40万を超えても嫁さんの顔は浮かなかった。今ならわかるが当然だろう。毎週土日に外食行って、浴びる程好きな酒を飲んで帰りがけにプレミア焼酎を買って帰るような暮らしをしてどこにお金が残るのか?今なら分かる。
それでも一財産築けると思っていた僕が完全に見誤っていた。盲目だった。
子どもに盲目
僕は良い父親でなければならないと、自分なりには必死で子どもに尽くしてきたつもりだったが、今思えばやはり子どもに対しても盲目だった。
周りから見れば好きな学校に行かせて、好きな習い事をさせてと良い父親風に見えていたかもしれないが、当の子ども達はそれらを望んでいなかった。将来の為、子どもの為とガツガツしている事が非常に窮屈だったのだろう。
やりたい事をやらせるのも大事な事だと今でも思うが、それ以上にあいつらに寄り添う事が一番大事だったのかもしれない。
今では上2人はそれぞれ独立、娘も普段の生活を送っているそうなので、安心はしているがそれをこの目で見ることができないのは完全に僕の落ち度が原因だ。
生活に盲目
金や子どもにも通ずるものがあるが、とにかく僕は若さに任せて働いた。目的は先にも書いた通り。
収入を上げるために苦手な事にも取り組んで、朝帰りや徹夜も当たり前のようにこなしてきた。
そのおかげで何度か死にそうにもなったし、死にたくもなった。途中緊張の糸が切れて病院に引きづられたこともあったし、原因不明の頭痛で玄関先でのたうちまわったこともある。挙げ句の果てには10日間の療養入院も経験した。
僕自身が僕自身に盲目になっていた。自分に対しても家族に対してもこうあるべきと思考停止を繰り返した。
ここまで追い込んだ結果、娘が産まれて1歳までの記憶が殆ど無い。遊んであげることもしなかったし、そもそも家に帰っていなかったからだ。
結婚生活はとっくの昔に破綻していた。
思考停止という罪
結局、僕は仕事を盾にして見栄を張ることと自身のストレス発散を優先し、自分を維持する事に必死だになり、それでも自分が正しいと本気で思っていた。それ以上の思考から目を逸らし続けた。
次第に身の回りの人たちと目を合わせられなくなり、満足に向き合うことができなくなった。
周りの人すべてが敵に見えて完全に心が孤立した。
原因はすべて僕にあった。
一番心を痛めていたのは嫁さんに違いない。破綻するとわかっていても気丈に振る舞い、ギリギリまで耐えてくれた。寄り添うべきは嫁さんの心であって僕に寄り添ってもらうために婚姻届けを出したわけではなかった。離婚する時はかなり罵り合って殺意すら湧いていたが、今となっては殺されるべきは僕一人だったと完全に認識した。
盲目=思考停止の罪は重い。
僕がやってきたこと全てが間違っているとは思わないし、思考停止が人間の判断力を維持する助けとなることも確かにある。しかし、自分の考えに固執して家族を囲い込んでしまう事は、嫁さんや子どもの人格否定に直結すると知った。
気付くのが遅かった。
正直、離婚届け提出から10か月かかった。
これからどうするか?
たらればの話をしても仕方がないというセリフを会社でもよく聞くが、僕自身はそうは思わない。
思考がクリアになってない時のたられば話は単なる言い訳だが、思考がクリアになった時のたらればは次へのアクションプランとなる。
こうしとけばよかった、ああしとけばよかったと、出てくる反省点を次回では実践すれば良い。仮に実践しても失敗するのであればそこでまたたらればをクリアな脳で考えれば良い。必ず成功する保証はどこにも無いし、その逆も無いわけだから実践と反省と改善を成功するまで繰り返すしかない。
僕に”次回”があるかどうかは現時点では本当にわからないのだが、次回があるとすれば、デカすぎる代償を払ってまで気付いたことをしっかりと活かせるよう、思考をクリアにして毎日を過ごしていきたい。