何が愛か、知らない。「コンセントー同意ー」
何が愛か、知らない。
自身が強く影響を受けてきた“圧倒的な社会”がガラガラと崩れていく。
「コンセント-同意-」鑑賞。
愛と芸術を重んじる国、フランスにて長年物議を醸しながらも、
高い評価と称賛を得てきた作家ガブリエル・マツネフ氏との1年に及ぶ交際を、性的虐待として出版したヴァネッサ・スプリンゴラ氏による著書『(性的)同意』(Le Consentement ,Vanessa Springora, 2020, Edition Grasset)が原作となった物語。
マツネフ氏は当時50歳、スプリンゴラ氏は当時14歳であった。
若き少女の視界を遮る老いた男の指先。このポスターが作品をよく表現している。
いかにして彼女は、歳の離れた男に支配されたかを描いた作品。
マツネフ氏は自身がペドフィリーであることを長年公言し、その体験を作品の中で緻密に描写した作品を発表していた。
それでいて、当時スプリンゴラ氏の母や文学界の多くのマツネフの支持者が河野二人の交際を容認していた。
1995年にフランス政府から芸術文化勲章を受けており、2002年から国立書籍センターからの文学者手当を受け取っていた。これはエリート階級が彼の行為を讃えていたとする明確な事実である。
これは間接的に性的虐待に加担していたといえるだろう。
マツネフ氏が、スプリンゴラ氏との出来事を著書に知らしめた以降、彼女のプライベートが芸術の名のもとに晒され、事実キャリアを損ねる危険や精神を蝕んだのだから。
興味深いのは、これを〝ロリータの反撃〟とする見方である。
#me too を皮切りに、世界的に女性たちが自身の体験を勇気を持って語る機会が世界各地で広がりを見せている。
これらは世間の道徳に期待する行動であり、女性たちが国境を越え一致団結し、私たちは声を持っているという事実を再度世に知らしめた。
(道徳意識の向上は上流社会において不都合ではないかと近年感じているがここでは深追いしない)。
この反応は流行物に過ぎないが、これら価値観の変容は当然世界中に影響し、今に続いている。社会的一撃の波が起こるたびに、社会は調整され、驚くべきほどに変わっていくのだろう。
長年〝作家の人間性と作品は別物〟としてきたフランスも、この書籍出版後の反応は早く、マツネフ氏の日記を出版してきた歴史ある老舗出版社などが彼の書籍販売を中止した。
ここで、長年荒木経惟氏のミューズとして作品のモデルとなってきたKaoRi氏の2018年noteでの告白における日本の反応を思い起こすのは私だけだろうか。
日本は、本当に、慎重。
世界の価値観は大きく変化している。この現象を近年感じながら、
それは私が時間をかけて習得してきた順応を、得た頃には不必要になってしまったような、肩すかしを食らったような気がする、という気持ちが僅かに残る。
中学校の図書館で借りたナボコフのロリータに、芸術的感知から歓びを得た私はある観点においては加害者側にまわってしまうのではないかという、背筋凍る思いがぬぐいきれない。
(だがしかし、公立学校にその書籍は存在したのだ)。
とはいえ、女性が、きちんと性別として対等していこうとする向上は女性として安堵すべきだろう。
これら時代のうねりによって、ほんのひとときの若き美に魅せられた数多くの物語の評価は変わるのだろうか。
人間が群れを成す社会において、ものの価値は絶えず変わり続けている。価値と評価の関係性について、しばし考える。
作家の人芸性に目を覆わなければ私たちを歓喜させた作品は無かったはずだ。凡庸でないからこそ、歓迎してきたのが芸術による人間性の拡張ではなかろうか。
とはいえ、結局のところ大衆に受け入れられなければ成功は無し。
今後倫理観に委ねられる作品への反応は、その背景に本当の被害者の存在に左右されると結論づけたい。
最後に、スプリンゴラ氏の選択した行為が告発として裁判所に訴え願うものでなく、マツネフ氏と同じ土俵である文学であったことを尊敬する。
結果的に、この書籍はフランス文学界を揺るがし、彼を包囲していた世界を取り上げるものとなった。
愛し方は後天的に学ぶ技術である。
未成年者の恋愛を断罪したくはないけれど、性愛についての知識、経験の浅い幼き者との対峙はその責任においては平等ではないと主張したい。
この作品は、14歳での性的合意が、どれだけ本人の納得を得ていたとしても、それは正しく機能したといえない。大人は巧みに弱者を誘導できる。
容易く愛を語るなかれ。
愛を搾取の口実にしてはならない。
「コンセント-同意-」
Le consentement/Consent
2023/118min/フランス・ベルギー
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