コンクリートに蝉の亡骸は還らない「自転車泥棒」

コンクリートに蝉の亡骸は還らない

日本人にはもう、ノイズにもならないほどに溶け込んだ蝉時雨。
帰り道、蝉の亡骸が目に入った。
当然ながらに時の流れを感じる。夏の盛り、気づこうとするかしないか。
周りは命が盛んに燃えている。

夏の映画を観ようよ!
そう言って、自転車泥棒を選択した君。
驚きをもって、この映画に季節柄を取り入れたことに感銘を受けた。
1948年「自転車泥棒」ヴィットリオ・デ・シーカ監督
1939-1945年の第二次世界大戦後の貧困にあえぐイタリアを舞台にした
「揺れる大地」「無防備都市」に並ぶイタリアネオリアリズムの代表作。
改めて見てもなお、古びない。
名作は古びない。本当に、心ひれ伏す映画体験。
この映画史に残る名作が、私の好きな現代監督作品らに色濃く影響し続けていることをまざまざと見せられ、感動した。
ひとはそう易々と感動しないものだ。
ひとの心を感動させるものこそ芸術だ。
感動を覚えるこころにこそ教養が宿る。
そして映画は時にタイムトラベル装置として機能する。
そのような観点で映画に触れる尺度を大切にしたい。

さて本作、貧困にあえぐ第二次世界対戦後のイタリアで、なんとか職を得た男。
だがしかし、その職は自転車よ用意することが条件。男は困った。
実は自転車は既に質に入れてしまっていたのである。
家計を支える奥さんと協力して、なんとか自転車を返却してもらうことができた男は、得意気に仕事へ向かう。
そだがしかし、熱心に仕事をする最中に自転車が盗まれてしまう。
彼は息子と共にローマじゅうを歩き回って自転車を探す、、、。
至ってシンプルながらに、人間がありありとえががれる仕掛けの多いこと。
人は追い詰められると、いとも簡単に考えが変わり、他人に振り回されてしまう。
そしてそれこそが真の貧困の悲劇なのだと。
じっくり、他者の物語に共鳴して道徳的意識を底上げする。良い時間だった。
デシーカの作品はこういう作用をもたらす。
約2時間の映画体験を、2時間にとどめてはくれない。
忘れられないのだ。
2時間の映画体験が、その後もずっと離れられない。
占い師にお金を使うなんて無駄だと言い切った翌日、
自転車の行方を占い師に尋ねるシーン。
いじけた息子とと共にレストランに立ち入るシーン。
息子と離れてしまうシーン。
この監督は、きちんと、鑑賞者を信頼していると感じる。
同監督の「ひまわり」も夏に見ては、戦争がもたらした悲劇に胸を撃つ。
時代に翻弄されながらにも、生きて生きて生き抜く。
ひとりでいても、誰か想うことが支えになることや、
目先の困窮にと囚われてひとりじゃないってことをつい忘れてしまいがちになってしまったり、スクリーンの中で、登場人物がきちんと、生きている。

一連を見た上で、この物語のラストをどう捉える?
いろんな方に問いたい。
真っ先に浮かんだ顔は私の知りうる中で最も純粋な女の子。
きっと彼女は彼らに寄り添い心を痛めるかもしれない。
その先に何を想うか、一度聞いてみたい。
彼女は何ていうだろう。
自分を切り離して、彼女を憑依して考えてみるのもいいかもしれない。
最近ふと想う。
真に裕福とは、どこまでも無垢でいられることじゃないかと。
貨幣価値や戦略的な人脈、信頼、容姿ではなく、
道徳意識を忘れない。
スクリーンの登場人物にも涙を流す、そんな女の子を忘れないでいたい。

「自転車泥棒」
Ladri di Biciclette /The Bicycle Thief
1948/88min/イタリア
監督/ヴィットリオ・デ・シーカ

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