ジャッキー・チェンと勝負する・追撃戦(19)
今回は2017年作品の「ザ・フォーリナー/復讐者」The Foreigner(英倫對決)
中国やアメリカでは2017年秋に公開されているのに、日本では大幅に遅れて2019年5月公開。IMDBによると、世界でいちばん遅い公開だぞ、日本が。
おかげで日本では製作順と公開順が入れ替わって、あとから製作された「ナミヤ雑貨店の奇蹟」「ポリス・ストーリー/REBORN」のほうが先に公開されている。
なんでここまで寝かされたかというと、このアドデザインが物語るとおり、あきらかに従来のジャッキー映画とはテイストが違うからだろう。日本の配給会社がビビったのかも。
このへんの危惧はよくわかる。今回観てみた私の感想も、こりゃあメンドクサイ映画だ、になったからだ。
ハリウッド時代を含めて、ここまでシリアス一辺倒の映画でジャッキーが主役をつとめたものはちょっと見当たらない。しかもジャッキーの役は、必ずしも観客が主役として感情を移入するわけではない。
ロンドンで爆破事件が起きる。北アイルランド分離を主張する過激派の跳ね返り分子によるテロだ。たまたま現場にいた中国系移民の娘が爆発に巻き込まれて命を落とす。娘の父親は復讐を求め、過激派組織の元幹部で北アイルランド自治政府の副首相に犯人の情報を要求する。組織防衛のために犯人を自分たちの手で処理したい副首相は相手にしないが、無害な老人に見えた父親は、じつは恐るべき男だった……
ストーリーの核になるのは、復讐を求めて過激派組織に逆にテロを仕掛ける父親と、その襲撃におびえつつ自らの身内に潜む犯人を追う副首相。つまり事件の両側から描かれるのだ。
父親で通称「チャイナマン」と呼ばれる男がジャッキー、副首相役が5代目ジェイムズ・ボンドをつとめたピアース・ブロスナン。
これまでのジャッキー・チェンは、間違いなく観客が感情移入し、共感を持つ役を演じてきた。初期のアーリー・ジャッキー・チェンを除けば、そこは一貫してきた。
それを「主役」という。
そう、ジャッキーは常に映画では「主役」をつとめてきたのだ。
ところがこの映画では、ジャッキーは必ずしもストーリーの中心にはいないし、観客が感情移入する役でもない。そこはジャッキーの「チャイナマン」に狙われる側であるピアース・ブロスナンのほうになる。
もちろん、かといってじゃあジャッキーは傍役なのかといわれるとそうでもないだろう。ここがこの映画の巧みな点でありメンドクサイ点でもあるのだ。
もっともこのへんは観客の意識によるだろう。誤解を恐れずにもっといえば、観客の出自や国籍によって違うんじゃないだろうか。どちら側から見るかで、この映画のイメージは大きく変わる。
ジャッキー側から見れば、いかにして復讐を果たすか、どうやってテロ組織を追い詰めるかに視点がいく。
いっぽうで、組織側から見れば、不気味な東洋人が迫ってくるという恐怖のほうを感じるのではなかろうか。わからんけど。
この二面性が、この映画をスッキリした娯楽映画ではなくし、ジャッキー映画らしくない、メンドクサイ映画にしているわけだ。
当然ながら私はジャッキー側に肩入れして見てしまうのだが、いっぽうで007ファンであるためブロスナン側も捨てがたいけど。ほーら、このへんもメンドクサイのですよ。
とはいったが、ジャッキー映画っぽいところもあることはある。
最初はまったく無害・無力に見えた老人が、門前払いを喰らった副首相事務所でトイレに仕掛けを施すあたりで突然豹変し、名うてのテロ組織を震撼させる怪物「チャイナマン」に変貌する。
ここでジャッキーらしさが顔を出す。ほんの数カットではあるが、ジャッキーがトレーニングしてなまった体を鍛え直すのが描かれるのだ。カンフー映画時代の「修行」を彷彿とさせ、いかにもジャッキーらしい。というか、たぶんジャッキーでなければこのシーンは無かっただろう。ジャッキー・チェンを「チャイナマン」役に起用したがゆえの演出だろう。もしかしたらジャッキー本人のアイデアかもしれない。
ま、最初は無害な老人が、最後はちゃんといつものスーパー強いジャッキーになっていたのはご愛敬ってところかな。
ところで、この映画には原作がある。これもジャッキーの映画ではちょっと珍しい。日本でも数作の翻訳があるイギリスのミステリ作家スティーヴン・レザーの『チャイナマン』だ。レザーは向こうではベストセラー作家。
原作は1992年の作品(邦訳は1996年刊行・新潮文庫) つまり映画化までに25年ものタイムラグがある。
映画はもちろん現在(2017年)を舞台にしているのだが、この時点で原作とは大きく背景が変わっている。
原作ではまだ北アイルランド紛争は未解決で、過激派組織といわれるIRAは「現役」で闘争中だった。だが1998年のベルファスト合意で停戦、2005年には武装解除してIRAは活動を停止している。つまり小説の重要な核となる背景が一変してしまっているのだ。
おかげで映画化にあたり、停戦合意後の自治政府に加わった穏健派と闘争続行を求める武闘派の対立なんていう余計なドラマを組み込むことになり、結果的にIRA側のドラマが煩雑化した(IRAもUDIという架空の組織に変えてある)
もちろんそれで映画のストーリーが厚みを増しているのだから、脚色にあたったデヴィッド・マルコーニ(「ダイ・ハード4.0」原案)や監督のマーティン・キャンベル(「007/カジノ・ロワイヤル」)はさすがなのだ。が、その反面、当然の帰結としてジャッキー映画色は薄まってしまっているのも事実だ。
ね、メンドクサイ映画でしょ。
こういう映画に出るようになったジャッキーの成長や出世ぶりが感じられる反面、次はもっと暴れてくれよな的なことを言いたくなるのもご勘弁ねがいたいね。