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善悪とは何か ロシア・ウクライナ戦争について考える。

 最近はウクライナ戦争のニュースでコロナの話も霞んできている。ここらでこの戦争に関する自分の意見というか考えをまとめてみたいと思う。まずは意見を持つにあたり、どの情報を選択するか。これによって人が持つ印象や思想は変わるので、これは慎重に選ばなくてはいけない。そしていかなる情報も100%信用してはならないということだ。情報は常に操作される可能性があるものだし、伝言ゲームのように少しづつ変わるうちに全く違う物になりうるということを前提に考える必要がある。

 「テレビで言っていたから」という言葉を昔はよく聞いたが最近は聞かないなあ。このテレビという言葉をなんでもいいから置き換えてみよう。「ラジオ」「新聞」「本」「偉い先生」「学者」「ネット」「友達」「SNS」まあなんでもありだが共通して言えることは、僕が実際にそれを経験したわけではないということだ。じゃあ一体何を信じればいいの?ということになるが、それは他者が決めることではないし、自分で考えろと言いたい。

 さて僕らが普通に見聞きしている情報とは西側の情報がほとんどであり、東側が発信するニュースとか、もしくはイスラム側からのニュースは入ってこない。そんなの分かってるよ、と僕も思っていたが実際に自分で見ると実感が湧く。ニュージーランドのテレビで、ロシア軍がウクライナの病院を爆破して一般人に被害を与えたというニュースを見た。次の日にネットで見つけたロシアのニュースでは同じ建物が写っており、この建物は元病院だったが何年も前からウクライナの軍事施設として使用されていたというものだ。どちらが正しい、という検証はできないしやっても意味はない。ただそういうものだというだけだ。

 先日コテンラジオが特集でロシアとウクライナの歴史をやった。時代は8世紀ぐらいまでさかのぼりそこから現在まで、取ったり取られたり、併合と分裂、独立と支配下を繰り返す。レーニンとかスターリンとか学校の授業で名前は聞いたことがあるというような人がどういうことをしたという話になり、ゴルバチョフ書記長とかアンドロポフとかブレジネフとか子供の頃に聞いた名前も出た。そして今まで知らなかった分野だが地政学という、地理と政治を組み合わせた考え方。ここに山があるから向こう側とこちら側では文化や民族が違うとか、海に囲まれた島国だから隣国が攻めにくいとか、そういう話だ。日本でも北陸の虎と言われたとんでもなく強い武将上杉謙信も雪には勝てなかった、なんていうのはその部類に入るだろう。そういう地政学的見地からと、歴史を通しての人の行き来など両方の見方で考えると、より今の状況が分かりやすい。

 ロシアがウクライナに一方的に侵略した、というのが一般的な(西側の)ニュースであるが、西側にも骨のある人は居る。アメリカの退役軍人パトリック・ランカスターという人は2014年からウクライナに住んで現地の状況を撮影してきている。それによるとドネツクのある村の人は8年間もウクライナ軍に攻撃され続け、子供達は学校にも行けず生まれてからずっと地下シェルターで暮らす子供もいる。これもネットで出てきた情報で100%信じてはいないが、少なくとも僕は大手西側メディアのニュースより信用できると感じた。

 こういった人達やウクライナ国内のロシア系民族から見れば、ロシアが自分達を助けに来てくれたと言える。ウクライナの国内にもロシア人はたくさん住んでいて、さらにロシア人とウクライナ人はほぼ同じ民族だ。どちらにも言い分はあり、自分は正しく相手が間違っているという、どこの世界にもある喧嘩だ。

 問題はロシアとウクライナだけでなく、ウクライナの後に西側諸国がいるしロシア側に中国がつくなんて話もある。こうなるとどの国がどちら側につく、という話に展開していき最悪のシナリオは第三次世界大戦だが、僕はそうならないだろうと根拠なく思っている。

 話をウクライナに戻すが、どちらが正しいという判断はできない。もちろんプーチンがやっている軍事侵攻が正しいとは思わないし、ウクライナがやってきたことも正しくない。戦争は全世界がやめるべき最たるものだ。だが歴史を見る限り、人類の歴史とは分裂と統合の繰り返しでありそのバックにあるのは常に暴力だ。第一次世界大戦が終わった後で、こんな悲惨なことが二度と起きないようにしようという話し合いになり国際連盟が出来た。理想的な組織に見えたが、その組織自体が力を持たなかったために次の戦争を止められずに結局世界は第二次大戦へ突入した。力を持っている組織は強くて指導権を持つ、力を持っていない集合体は結局のところ蹂躙され支配下に置かれる。そして暴力を正当化するために相手を非難する、行き着くところは「自分は正しく相手が間違っている」になってしまう。これは国際問題でも個人のケンカでも同じことだ。そこに善悪がある限りなくならないだろう。

 善悪というのはとても分かりやすく、誰にでも理解できる構造だ。ウルトラマンや仮面ライダーといったテレビの主人公や、アメリカならスーパーマンにスパイダーマンやバットマンなど、ひいては遠山の金さんや鬼平に水戸黄門、最近では半沢直樹まで。善い者はヒーローであり正義の味方であり、格好よくて強くて人情に長け、優しくて弱い者を放っておけない。一方悪い者は、弱い者をいじめ私腹を肥やす悪代官とか、世界征服を企む狂人科学者だったり、悪の組織の手先とか。悪者は一目見て分かるように悪い面構えで、憎々しげで、憎悪するような感じだ。そんな悪者が途中まで優勢でヒーロー危うし、でも最後には悪者がギャフンと言って痛い目に会う様子とかを見ると胸がスカッとする。勧善懲悪、ヒーローが悪者をやっつける構図はとても分かりやすい。テレビとか映画とかエンタメの世界ならめでたしめでたしでそれもいいだろう。でも立場を変えて見るのを知るとそうばっかりも言っていられないし、最近はそういう文や絵も出てきている。

 誰でも知っている桃太郎という昔話では、ヒーローは桃太郎で悪役は鬼である。どこで見たのか忘れてしまったが、子供の鬼が泣いている絵があり、「僕のお父さんは桃太郎という奴に殺されました」というものがあった。小鬼から見れば桃太郎というヤツがいきなり現れ、親を殺し財宝を奪っていった、となる。もう一つ桃太郎の話だが、ドラえもんの話で、ひょんなことからのび太が桃太郎となった。鬼ヶ島へ行ってみたら、鬼は難破して漂着したオランダの船員だった。翻訳コンニャクで話を聞くと、最初は村人に助けを求めたが言葉が通じずに攻撃をされた。仕方ないので近づく者を脅すと、怖がってお宝を置いて逃げてしまう。どこでもドアでオランダ人を祖国へ送ってあげて、のび太は財宝を村へ持って帰ってめでたしめでたしという話。この場合の悪者は一体誰だ?今の世でも本質はたいし変わらず、悪者は相手で自分は正義の味方、自分達にこそ正当性があるということを主張する。だからフセインだってカダフィだってビンラディンだって殺してもよい。だって自分は正しいから。最終的には暴力でカタがつき、その後は土地も民も国もボロボロだ。

 最近僕は簡単に善悪を決めないように心がけている。常に相手の立場で物を考えたり、別の視点で物事を観るように気をつけている。やってみれば分かることだが、善悪を決めないと分かりにくいし結論が出ないことが多いので、人を納得させられない。メディアのニュースの対象は一般大衆なので、分かりやすくストーリーにする必要がある。分かりやすいストーリーとは勧善懲悪で、プーチンを悪者にするのが分かりやすいし都合もよい。どちらも正しくてどちらも間違っている、では大衆は納得しないしニュースにならないのだ。善悪を決めないのはよいとして、ではどうすればいいのか、僕には分からない。喧嘩両成敗というシステムが成り立てば良いのだが、そうもいかないだろう。だが武力で解決するというやり方では何も始まらないことは断言できる。

 戦争の反対は平和だと思いがちだがそうではない。まず平和(という状態)の反対は無秩序(という状態)であり、戦争(という外交)の反対は話し合い(という外交)だ。例え戦争で勝ってもそれはいずれ次の戦争を生むのは歴史をみれば分かる。これは当事者、ロシアとウクライナの事だけではない。経済制裁をしようとしている国はあるが、それをやっている国は経済制裁が暴力だとは思っていない。経済制裁という暴力に出た結果、原油の値段は跳ね上がった。これによって全ての物価は上昇するのは目に見えているし、それはすでに始まっている。企業はこんな状況だから自分が損をしてでも人々の為に安い値段で提供します、とはならないこれは企業を非難するのではなく資本主義というものがそういう構造だからだ。結局のところ庶民の財布を苦しめる結果となる。いつの世でも戦争があれば苦しむのは一般大衆で、特権階級や支配者階級は苦しむどころか得をする。

 地理的にニュージーランドは戦場から地球上で最も離れた場所だろう。そんな遠くにいる自分が出来ることは、一体なんだろう。ウクライナに義援金を送るのは違うだろうな。ロシア産の食べ物を買おうにも売っていない。ウクライナ料理、ロシア料理のお店も聞いたことがない。血迷ってアフガニスタン料理のお店に行くか、あそこは美味しいから。何をするべきか考えた。考えた結果出たのは、想いを馳せる事だろう。

 傍観者にならず、無関心でもなく、無関心とは愛と懸け離れた感情だからだ。情報は操作され得る事を知りながらその情報を見聞きして、自分なりに何が起こっているのか考える。これは何戦争に限ったことではなく、全ての世界情勢でも同じことで、歴史の生き証人となる。ロシア、ウクライナに限らず、報道されないだけでウィグルの人のように、世界中で傷め続けられている人がいる。その人たちのことを想いながら祈り、自分の目の前のやるべきことをやる。それが一隅を照らすという事であり、戦争を終わらせ平和を導く鍵だと信じる。

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