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感じるnote #3 父の死

こんにちは。アラフォー女子のミニイです。

2025年1月15日水曜日午前11時3分、成田の病院で
私の父の死亡が正式に医師から告げられました。

朝、母から連絡がありかけつけましたが
病院についたときには既に息をひきとっていました。

心拍数を伝える表示が0で鳴り響く通知音を聞いても
急すぎる出来事に頭と心の整理がつかなかった。

でも
父がこれまでそうであったように
自分自身の運命に身をゆだねて
選択した道なんだと

家族としては
父の決断に
寄り添うしかない


経緯

2018年1月 悪性リンパ腫の発症を確認
2018年8月 脳出血で倒れ、数日間発見されず
一命を取り留めたものの右半身麻痺、発話障害が発症
回復期を終えて自宅療養
酷い頭痛に悩まされて体調が安定せず
デイサービスは行ったり行かなかったり
2024年12月  デイサービスに全く行かなくなる
年末年始 発熱、体調悪化で何度かベッドから落ちる
2025年1月5日 ベッドから落ちて起き上がれず救急車で運ばれてそのまま入院
2025年1月15日 早朝 入院後初めて面会許可、母との対面後息を引き取る
死因は、悪性リンパ腫とのこと。

父の最後から感じていること

父は、医師の言葉、処方される薬、漢方、
最後は延命治療まで、すべてを強い意志で拒んできました。

どんなに痛くても、死が迫ってきても
父は自身の運命に寄り添って
自分の命を生き切る姿を見せてもらったように思います。

日々生活のすべてを共にしてきた母は
想うところも沢山あったはずですが
父の意志、判断をひとつひとつ受け止めて寄り添ってきました。

強い信念、ゆるぎない覚悟、貫く力、
生命力への挑戦、自然であること、赦すという愛、、

自分の命に寄り添う父の姿、
そのすべてを赦して寄り添う母の姿から
色々なメッセージが感じ取れました。

父と母がみせてくれた寄り添う姿から
私はこれからの人生で何かあったときに
立ち止まって空を見上げて
感じてみようと思います。

父について想うこと

父は、父の母である私の祖母と同じように
どんなときでも周りの人のことを想う心優しい人でした。

父の丁寧な塗り絵
同じく丁寧な祖母の塗り絵

38年間JALで飛行機の整備士をしていましたが
企業再建で早期退職が促された流れで
当時気がかりだった祖母のお世話をすると決めて退職。
千葉の自宅と実家の福島の二拠点生活を続けていました。

脳出血で倒れたのは福島滞在中で
誰も住んでいない祖母の自宅で数日間倒れたままでしたが
奇跡的にその命を取り留めました。

脳出血で倒れて右半身が麻痺し
発話ができなくなってしまったけど
意思表示だけは明確でした。

孫である私の娘が何度も病院にきて励ましてくれたからと
倒れた1年後、2019年には保育園の運動会に応援に行きたいといって
千葉から神奈川までかけつけてくれました。

回復して相模原まできてくれた父

病気になってからは
ひどい頭痛に悩まされて
いつも眉間にしわを寄せて険しい表情をしていましたが
病気になる前はお酒が大好きで
人が集まると楽しそうにお酒を飲んで笑っている姿が印象に残っています。

最後に生きた父に会ったのは、今年のお正月。
1月末にまた帰省する予定があったので
「またくるからね」と言って挨拶したとき
父が今までよりも元気がなく小さく見えました。
その時も熱があって体調が悪かったから仕方ないと思ってたけど
父はもうこれが最後だと悟っていたのかもしれません。

生きているうちに、ありがとうと
ちゃんと伝えたかったけど
鏡を見たら
父が私の中にいるのが見えました。

父は私の中で生き続けているから
私が自分の命を精一杯生きることが
父への感謝の表現そのもの。

父が父の命を最後まで全うしたように
私も与えられた自分の命を
しっかり生き切ろうと
改めて感じています。

お父さんへ

最後の6年半、生き抜いてくれてありがとう。
辛かったと思うけど、
祖母の最後、パツの最後も見届けられたし、
いわきの墓じまいもできた。
回復して相模原にも来てくれたり、
湯河原にも旅行に行けたり、
色んな思い出ができたよね。

長い闘病生活、本当にお疲れ様でした。
安らかに休めますように。

私はお父さんがくれた「仁美」という名を大切に
人を想うことを忘れずに
つないでくれたこの命を精一杯活きていきます。

69年間のお父さんの人生が、
お父さんにとって幸せな時間であったと
想えているといいなぁ。

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