ももクロの「走れ!」と三島由紀夫の「金閣寺」

笑顔が止まらない! 踊るココロ止まらない!
動き出すよ 君の元へ 走れ!走れ!走れ!

ずっとキミを同じ電車で見るたびに
いつからだろう? 僕のココロの中で大きくなっていた想い

話しかけることも出来なくていつも
友達と一緒に喋ってるふりで横目で見てた僕だけど

気付いたこの感情にもう後悔なんてしたくない
僕は僕にウソついて逃げたくもない
溢れ出しそうなキモチを一つ残らず 言葉に全部詰め込もう

笑顔が止まらない! 踊るココロ止まらない!
動き出すよ 君の元へ 走れ!走れ!走れ!
今はまだ勇気が足りない! 少しのきっかけが足りない!
動き出して 僕の体 走れ!走れ!走れ!

いつだって踏み出す前に言い訳ばっかり考えて
結局何にも出来なくて 時間が過ぎて
忘れていくことに慣れてた 僕のココロが走り出した

こんなに広い世界からすれば 僕なんてちっぽけだろうな
でもキミへの僕の想いは この空よりも大きいから

笑顔が止まらない! 踊るココロ止まらない!
動き出すよ 君の元へ 走れ!走れ!走れ!
今はまだ勇気が足りない! 少しのきっかけが足りない!
動き出して 僕の体 走れ!走れ!走れ!

待っていても始まんない キミと全力で向き合いたい
同じこの星に生まれて 同じこの時代に生まれてこれて
偶然なんて簡単な言葉ですれ違い離れてしまうなんて
考えるだけで胸の奥が痛くて
純粋にキミと繋がっていたいよ今も
何年も何十年もこの先の未来も 一度きりの 人生だから
キミの前じゃ素直でいたいんだ

それでも答えは出せないよ 少しの言葉出せないよ
「君が好き」それだけで世界を変える?変わる?

笑顔が止まらない! 踊るココロ止まらない!
動き出すよ 君の元へ 走れ!走れ!走れ!
今はまだ勇気が足りない! 少しのきっかけが足りない!
動き出して 僕の体 走れ!走れ!走れ!

ももいろクローバーZ「走れ!」

「世界を変貌させるのは決して認識なんかじゃない」と思わず私は、告白とすれすれの危険を冒しながら言い返した。「世界を変貌させるのは行為なんだ。それだけしかない」

三島由紀夫「金閣寺」

ももクロの「走れ!」では「ココロ」と「体」というのが明らかに対比として書かれている。
この曲の主題は「金閣寺」と同じで、「世界を変えるのはココロ(認識)か体(行為)か」ということだと思う。

ずっとキミを同じ電車で見るたびに
いつからだろう? 僕のココロの中で大きくなっていた想い

話しかけることも出来なくていつも
友達と一緒に喋ってるふりで横目で見てた僕だけど

気付いたこの感情にもう後悔なんてしたくない
僕は僕にウソついて逃げたくもない
溢れ出しそうなキモチを一つ残らず 言葉に全部詰め込もう

いつだって踏み出す前に言い訳ばっかり考えて
結局何にも出来なくて 時間が過ぎて
忘れていくことに慣れてた 僕のココロが走り出した

笑顔が止まらない! 踊るココロ止まらない!
動き出すよ 君の元へ 走れ!走れ!走れ!
今はまだ勇気が足りない! 少しのきっかけが足りない!
動き出して 僕の 走れ!走れ!走れ!

「走れ!」の主人公はすでにココロは走り出しているが、体はまだ走り出していない。というか動き出してもない。「君」を好きになったが、告白などの行動はまだ起こせてないということ。したがって曲名の「走れ!」というのはココロではなく体に対して言っている。認識を変えるだけでなく行為を起こせ、と言っている。しかし主人公は「今はまだ勇気が足りない」「少しのきっかけが足りない」から告白することができない。

そして落ちサビ。

それでも答えは出せないよ 少しの言葉出せないよ
「君が好き」それだけで世界を変える?変わる?

文脈から考えると、「君が好き」というのは、「君が好き」という言葉で君に思いを伝える、ということだろう。だとするとこれは認識か行為かでいうと行為にあたる。つまり言い換えると、
告白という「行為」で世界を変える?世界は変わる?
ということ。
まあ「君が好き」というのが認識のことだという解釈もできなくないと思うけど。

また、「走れ!」には「言葉」について触れている箇所が多くある。

気付いたこの感情にもう後悔なんてしたくない
僕は僕にウソついて逃げたくもない
溢れ出しそうなキモチを一つ残らず 言葉に全部詰め込もう

話しかけることも出来なくていつも
友達と一緒に喋ってるふりで横目で見てた僕だけど

偶然なんて簡単な言葉ですれ違い離れてしまうなんて
考えるだけで胸の奥が痛くて
純粋にキミと繋がっていたいよ今も
何年も何十年もこの先の未来も 一度きりの 人生だから
キミの前じゃ素直でいたいんだ

それでも答えは出せないよ 少しの言葉出せないよ
「君が好き」それだけで世界を変える?変わる?

これも重要だと思う。主人公は好きだという言葉を相手に伝えられない。繰り返して書くとこれは「走れ!」的に言うと「体」が走れていないということであり、「金閣寺」的にいうと「行為」を起こせていないということ。

「金閣寺」でも「言葉」について深く考えている。まず主人公の溝口は吃音であり言葉をうまく発せない。

吃りは、いうまでもなく、私と外界とのあいだに一つの障碍を置いた。最初の音(おん)がうまく出ない。その最初の音が、私の内界と外界との間の扉の鍵のようなものであるのに、鍵がうまくあいたためしがない。一般の人は、自由に言葉をあやつることによって、内界と外界との戸をあけっぱなしにして、風とおしをよくしておくことができるのに、私にはそれがどうしてもできない。鍵が錆びついてしまっているのである。

三島由紀夫「金閣寺」

「言葉」が「内界と外界との間の扉の鍵」であることは間違いないのだと思う。世界とつながるには言葉が必要で、好きな人に告白もできなければ話しかけることすらできない「走れ!」の主人公も、「金閣寺」の溝口と同じ悩みを抱えている。私たちも同じではないか。

おまけ。
奇しくもももクロは2013年に2度目のNHK紅白に出場した際、金閣寺をモチーフにした衣装で出演している。

正直そんなに金閣寺には見えないが百田夏菜子本人がそう発言したらしい。三島由紀夫の「金閣寺」を読んでいる身からすると、アイドル(idol)が金閣寺を模したというのは面白い。
もっとも、1曲目の「GOUNN」の歌唱が終わった時点で金閣寺の衣装は変えていて、2曲目の「走れ!」に関しては違う衣装で歌唱している。

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