目的と手段を混同しない?
目的は、目指すべき的。
手段は、そこに至るまでの道、ツール。
しかし、「道」をたどっていく時に
しばしばその魅力に惹かれ、
別の言葉で言えば「沼」にはまりこみ
いつのまにか目的と手段がごっちゃになって
すり替わってしまう…。
そんなことはありますよね。
本記事は目的と手段について。
私は、人間である以上、
これはよくあることだ、と思っています。
なぜなら、人間は、良い意味でも悪い意味でも
◆「忘れる」「上書きしていく」
「歴史を塗り替えていく」生き物
だからです。
本能100%、あらがえない何かに
突き動かされている生き物ならば、
こんなことはないでしょう。
「飛んで火に入る夏の虫」という言葉がある。
明るいところに、たとえ身を焼く炎であろうと
飛び込んでしまう夏の虫とは、違うのです。
虫は、明るいところに飛び込みます。
それが本能だから。
そこに目的や手段の概念はない。
ただ、炎の中に飛び込む。
人間は、違います。
基本、自由です。
目的を忘れたり、変えたりできる。
手段も忘れたり、変えたりできる。
もちろん「のめりこむ」ことすら、できる。
夏の夜で炎が燃え盛っていたら、
まあ、キャンプファイヤーか何か、ですよね。
「うわあ、すごいなあ」とは思っても、
テンションが上がったとしても、
その炎の中に飛び込む人は、いない。
その昔、明智光秀が、本能寺にて
織田信長に夜襲をかけて倒したのも、
すべて人間の可変的な行動によるものです。
(光秀が「惑乱」して本能的な情動の下に
行動してしまったという説もありますが)
…ただ、それがゆえに、
「目的」をつい、忘れたりするんですね。
それに比べて「手段」は、
身近なもの、実際にやっていることです。
人間、本能100%ではないがゆえに、
「目的」がないと、何か行動をしづらい。
しかし、その目的をいつしか
忘れがちなんです。
そんなときは、身近で行っている行動、
たかが「手段」であるものを、
「目的」へとすり替えてしまう…。
すり替えて、あたかもそれが最初から
目的であったかのように、続けてしまう。
積み上げてきたものに、何らかの意味付けをして
捨てたくないと思う。
おそらく、そういうことかなと思います。
最後に、まとめます。
私はこの人間の目的と手段の混同、すり替え、
必ずしも悪いことばかりではない、と思います。
ただ、無意識のうちにそうなってしまって、
よくよく考えると何の意味もない
(と現時点で思える)ことに
時間を費やしてしまってはいけない、
とも思います。
例えば、日々のSNSへの投稿。
私には、当初の目的がありました。
それは「自分の作品を告知・宣伝すること」。
しかし今は、変わっています。
それは「投稿を通してアウトプットしながら
自分の認識をブラッシュアップすること」、
「人とのつながりをつくっていくこと」などに…。
また、「日々投稿を続けることで
見える化、見せる化を磨くこと」なども。
この「目的の変更・複数化」は、
いまの私の中では
「発展的変更」だと思っています。
だから、これはあり。
SNSの利点をよく知らなかったからこそ
「宣伝」しか頭になかったわけですから。
実際に手段に触れて、やってみて、
新たな目的を設定することは、あり。
当初の目的である
「自分の作品を告知・宣伝すること」も、
忘れたわけではなく
ちょこちょこしていますから。
おそらく、そのうち、この目的群ですらも
変わっていくと思います。
そもそも、手段であるSNSの仕様も
日々変わっていきますし、
AIの発展で投稿という行為の意味自体も
変わるかもしれません。
それでもいい、と思います。
なぜなら、人間は
目的と手段を自由に可変できる、
それがゆえに悩みも喜びも得られる
生き物ですから。
その「変化」を常に「自覚」すること。
今、何のためにどんな手段を使っているのか、
柔軟でありつつ、
その時々で「自分で」考えること。
無意識の「いつのまにか」に、意識的であること。
そういうことが重要かな、と思います。
読者の皆様は、いかがでしょうか?
「目的」と「手段」が混同していませんか?
逆に「目的」と「手段」に縛られていませんか?
意識的に、何かをしておられますか?
…この問題について、わずか数分で
鮮烈に世の中に問いかけた動画があります。
NHK『びじゅチューン!』、
井上涼さん作の「鳥獣戯画ジム」です↓
先日、久々に目にしたので、本記事を
何かに突き動かされるように
「いつのまにか」書いてしまいました。
よろしかったらぜひ、視聴してみて下さい。