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【ネタバレ】The Last of Us Part II【ラスアス2感想】

 名作として知る人も多い『The Last of Us』(以下ラスアス1)から7年の時を経て今年リリースされた期待の続編『The Last of Us Part II』(以下ラスアス2)を先日クリアした。

あまりにも衝撃的な内容だったため、クリアした後もしばらくこのゲームのことを考えてしまい、思い出すたびに泣きそうになる。
区切りをつける意味も込めて一度ここに感想を吐き出しておくことにする。

なお、このページにたどり着いた人には不要かもしれないが、未プレイの方やプレイ動画未視聴の方は絶対にここから先を読まずに騙されたと思って自分でプレイしてほしい。
というかプレイ済み前提で書くから知らないと意味不明だと思う。

※これはすべて私個人の自分勝手な解釈であり、公式で発表されている事実などに基づくものではない。ものすごい自信満々に断定口調で書いてるがすべての文頭に「多分」がついてると思ってほしい。

■The Last of Usの”Us”の指すもの

ラスアス1は「ジョエルとエリーの物語」だったがラスアス2もまた「ジョエルとエリーの物語」である。

■単なる現象と隠された本質

ラスアス1をプレイした私はジョエルとエリーのことが大好きだった。

ジョエルはエリーのことを亡くなった娘に重ね合わせながらも尊重し愛していた。
エリーも独りぼっちを恐れジョエルという強い存在に依存していた。

極限の環境下で共に苦難を乗り越えた二人には揺るぎない絆があり、
この二人には絶対に幸せになってほしいと思っていた。

だが、ラスアス2の物語が始まって描かれるのはエリー視点によるディーナやジェシーといった新キャラクターとのジャクソンでの平和な暮らし。
そして、新たな操作キャラでもあるアビーの登場。
序盤に呆気なく訪れるジョエルの死。
「復讐」「同性愛」「差別」「宗教」・・・多くの創作物においてストーリーの本質に据えられることの多いキャッチーなテーマたち。

次々に起きる現象を見ているうちに、ラスアス2のストーリーにおいては「ジョエル」は重要ではないと何度も言われているような感覚に陥った。
エリーが何を考えているのかがわからず、もしかしたらエリーにとってもジョエルはもう大切な存在ではなくなってしまったのではないか、ラスアス1のジョエルの選択は間違っていたのではないか、そんな不安と不快感に苛まれながらプレイしていた。

正直に言うとプレイ中はラスアス2の開発スタッフは頭おかしいんじゃないかと思ってました。ごめんなさい。

でもアビー編が始まった辺りから何かおかしいなと感じるようになった。

これで終わりか…というタイミングでは終わらずに続いていくストーリー。
散りばめられたキャッチーなテーマ達だったがそのどれもがストーリーの本質から外されていく違和感。
あれ?結局なにが伝えたいの?
このストーリーがどこへ行き着くのか気になってしょうがなくなった。

私がストーリーの本質にようやく辿りつけたのはエンディング寸前に流れる回想だ。
劇中の時系列としてはまさにラスアス2のストーリーが始まる寸前のことである。

ラスアス2はこのシーンのために存在していたゲームと言っていい。

■「でも許したいとは思ってる」

その回想とは、ダンスパーティーの夜にジョエルの家の前でジョエルとエリーが言葉を交わすシーン。
そしてジョエルとエリーが最期にちゃんと言葉を交わしたシーンでもある。

以下、実際のセリフと併せて考察する。

エリー「あたしはあの病院で死ぬはずだった。生きたって証を残せたのに。それを奪ったんだよ。」

→エリーは強い言葉でジョエルを糾弾しながら責任を追求し、十字架を背負わせようとしている。(十字架ってダサいけどいい表現が思い浮かばなかった)

ジョエル「もしも神様がもう一度チャンスをくれたとしても、俺はきっと同じことをする。」

→ジョエルは今でもあの選択を後悔はしていない。エリーのためなら何度でも世界を敵に回すことができる、とその十字架を背負う覚悟を見せる。

エリー「わかってる。たぶん、一生そのことは許せないと思う。」

→ジョエルがそう思っていることはエリーもわかっていた。
にもかかわらず「一生許せない」と口にする。

エリー「でも許したいとは思ってる。」

→この台詞である。この台詞で初めてエリーが何を考えていたのかがわかった。
この言葉は本当に「一生許せない」なら出てこない。
エリーはすでに心の中ではジョエルを許す準備が出来ているということだ。
罪の意識に苛まれながら苦悩していたジョエルにとってこれほど救われる言葉はない。とても愛に満ちた言葉だ。

にもかかわらず先ほど「一生許せない」と呪いのような発言した理由はなぜか。
それは「ジョエルを一生許さない」という十字架をエリーも背負う覚悟があるということだ。
なぜなら二人にとってこの十字架こそが、この二人の間だけの何よりも深く強固な絆であるからだ。

ジョエル「それでいい。」

→エリーの想いを知り、ジョエルもそれを受け止める。

エリー「わかった。じゃあまたね。」

なんて深く重たい愛の形だろうか。
ジョエルはエリーを愛していたが、エリーもまたジョエルを何よりも大切にしていたことがこの回想で初めて明確に表現される。
全てが終わったエンディングの回想で、だ。

時系列的にはこの会話の翌日にジョエルはエリーの目の前で惨殺される。
エリーがジョエルと背負った呪いの十字架はそのままエリー1人の上に覆いかぶさることとなる。

■「エリーが何を考えているのかわからない」

目から鱗が落ちるようにストーリー中で感じた違和感の謎が解ける。
エリーはずっとジョエルのことだけを考えていたのだ。
ディーナやジェシーやアビーたちでさえも眼中にはない。

アビー編の最後にアビーが劇場に乗り込んで、トミーを組み伏せジェシーを銃で撃つシーンがある。
殺された仲間の復讐のためだ。

だがここでエリーが放ったセリフは、
「ジョエルのせいじゃないの。あたしを守ろうとしただけ。治療法がないのはこのあたしのせいなの。」

ここまでプレイしたプレイヤーとアビーからしてみればまるでズレている発言である。
だがこれはエリーが、背負った十字架に押しつぶされそうになりながら絞りだした言葉なのだ。
エリーの中の時間はずっとここで止まっていたのだ。
これを示唆している描写は作中に多く散りばめられている。(回想、ギターetc)

その後アビーとの決闘に敗北し、見逃され、ディーナとの幸せな時間を手に入れたにもかかわらず、ジョエルの死はフラッシュバックする。なぜなら依然として十字架は背負ったままだからだ。

■なぜアビーを見逃したのか

エリーはサンディエゴまでアビーを追い続け、最後の決闘でアビーに勝利するものの、結局は見逃すこととなる。

プレイしていたタイミングでは、まだエリーが何を考えているのかわかっていなかったため、この作品のテーマは「復讐」であり「復讐が何も生まないこと」や「復讐の連鎖」について伝えたいんだろうと思った。

だがエリーが何を考えていたのかがわかると見え方がまるで変化する。
エリーが前を向いて生きていくためには背負った十字架に決着をつける必要があり、その方法こそが「一生許せないと思える対象を許す」だったということだ。
そこに高尚なテーマや製作陣の都合のいい介入もない。
ただエリーがエリーとして生きていくために必要な選択だったのだ。

この作品の本質は「復讐」「同性愛」「差別」「宗教」・・・などではない。
どこまでいっても「ジョエルとエリーの物語」なのである。

2020年8月14日