箕輪さんのキャリア観とメメント・モリ
なんだかものすごく久しぶりなNoteになってしまいました。
元々文章を書く、というか自分の思考を文字と論理で表現していくっていう行為自体はものすごく好きなんですけど、いかんせん怠け者なのですぐさぼる…。
まぁ無理に書く必要もないとも思うけど、「書きたいな」と思う瞬間は結構あるので感情に忠実に…
ちなみに画像は何の関係もない猫です。
どれだけ撫でられても平然と爆睡し続けるロックな猫でした。
見習おう。
はじめに
今回考えたのは、箕輪さんのキャリア観とその感覚を一般化するためにはどうしたらいいのかな、ということです。
というのも、昨日箕輪さんのおごりで焼き肉を食べられる贅沢な会があって(箕輪さんごちそうさまでした。幹事の方々お疲れさまでした。僕と話してくれた方々ありがとうございました。皆様これからもよろしくお願いします。。)。
で、店を出た後に近くの公園で箕輪さんを囲ってお話できる機会があって。(たぶん何も知らない人から見たら、怪しい宗教の密会か、イカれた井戸端会議に見えたと思うけど)。
そのときに、大学4年生のある方(お名前存じ上げずすみません…)が、「どうして箕輪さんは新卒でパラソルを刺す仕事をしようと思ったんですか?(意訳)」という質問を。
それに対して箕輪さんは「やりたくないことをやりたくなかった(めちゃめちゃ意訳)(箕輪さんごめんなさい)」という回答を。
自分のキャリア観
おこがましいのは100も承知200も合点ですが僕は割と箕輪さん寄りの考えで。
今、早稲田を休学(来年は退学したい)しているんですが、特に留学とかする予定もなく。
自分のやりたいことが大学ではできないことが分かったから、それをやるために休学しています。
だから箕輪さんのお話を聞いて「そうだよな~」と思いながら聞いてました。
でも箕輪さんの回答への他の人の反応とかを見ていると意外と皆さん違うっぽい。
あと実際、周りに「休学するなんてすごいね!」と言われて、「いや休んでる僕よりちゃんと大学行ってるあなたの方が偉くね?」と思う機会も多い。
(もしかしたら単なる皮肉に僕が気づいていないだけかもしれません。そうだったら泣ける)
この感覚のずれはどこから来るんだろう。
箕輪さんは割と元からそういう気質が強い感じがしましたが、じゃあ自分の場合は何でこう考えられているんだろ?と。
「メメント・モリ」
その自分なりの答えが題名に入れた「メメント・モリ」です。
メメント・モリというのはラテン語で、「自分がいつか死ぬことを忘れるな」という意味を持ちます。
ものすごくダークな言葉に聞こえるかと思いますが、古代では「今を楽しめ」という趣旨、つまり、「食べ、飲め、そして陽気になろう。我々は明日死ぬから」というアドバイスとして使われていました。
平均寿命が25歳ともいわれる古代ローマなので、こういう考えが一般的になるのもまぁ納得できます。
(ここからは僕にとっての「メメント・モリ」の解説。)
少し話は変わってしまうのですが、僕は小2の頃に祖母を、小5で祖父を亡くしました。
小4から中学受験の塾に通っていて国語で「死」を題材にした文章を読む機会があったこともあり、死について幼いなりにかなり真剣に考えていました。
そして、小6の際にふと、祖父や祖母の記憶が前ほど鮮明ではなくなっている自分に気づきました。
思い出そうとしても、顔には霞がかかり、表情は遺影の表情以外が思い出しづらく、声のトーンや調子もくぐもったものに。
そこで初めて、「死ぬ」ことで精神的・肉体的に失われてしまうことはもちろん、他の人にとっての「概念としての自分」も時が経つにつれ薄れていってしまうことに気づきました。
もちろん小6の段階でここまで明確に言語化できるほどではありませんでしたが、状態としてはそういう状態です。
けれど一方で教科書に載る偉人など、長い時間概念としてこの世界に居座り続けている存在もいる。
そういうことを時々考えながら過ごしていたのですが、大学1年の終わり頃に、「名前が残るかどうかはともかく、この世界により大きくポジティブな影響を残せる人間になろう」という結論に至りました。
そしてそれ以来、この結論をブラッシュアップさせつつも大きくはそらさずに、そしてそれに向けて行動してます。
これが、人生100年時代とも言われる今の日本社会でキャリアについて考える上で重要な「メメント・モリ」なんじゃないだろうか、というのが僕の結論です。
結論
これはもちろん僕の結論に全員が落ち着くべき、という話ではなく、
自分が死ぬことを認識する→それを利用し、自分にとって一番優先順位が高いことを見つける
という一連の流れを意識してみては、という話です。
この場合、僕にとっての一番優先順位が高かったのは、「自分という概念すら失われかねない虚無への抵抗」に当たります。
物質的に、そして自分が使える時間的に、さらには選べる選択肢が豊富になりすぎてしまった現代人はついつい欲張りになります。
「安定したい。高い地位を獲得したい。でも遊びたい。挑戦はあまりしたくない。でも退屈なのも嫌だから刺激がほしい。」
というように。
でもこういう風に複数の価値基準(≒複数の物差し)を同じような優先順位で考えてしまうと、結局怠け者な人類は目の前の短期的なことばかり見て長期的なものから逃げます。
そして、豊富にあったはずの選択肢が気づけば狭められてしまいます。
尖るためには、一つとまでは言わずとも価値基準を絞る必要があると思います。
まず尖る必要があるかどうかはともかく。
よく見る自己分析なんかは、自分の価値基準を洗い出すことに重きを置いているので、逆に価値基準を増やすアプローチです。
それはそれで悪いことではないのですが、それだけだと尖れない。
尖るために価値基準の間に優先順位をつけて、断捨離のように持っているものをからそこまで重要でないものをそぎ落とす。
そぎ落としてそぎ落として、それでもなお残ったものが自分が一番大切にしたいものだと思います。
一つ絶対譲れない価値基準を決めたうえで、それを意識しながら「お金を稼ぐ」など他の優先順位が低い価値基準をある程度満たすためにどう工夫するか考え、実行する。
めちゃめちゃ遠回りしたけれど結局はライフミッションを一つ見つけようという話なのかもしれません。
でもそれを見つけるために自分の死を一度見つめてみる、というのはかなり有効な手なんじゃないかなと思います。
自分が死に直面しているとして何を選択するか、という状況ほど切羽詰まっていて重みのある状況はないでしょうし、だからこそ余分なものが削ぎ落されます。
そういう意味で、「メメント・モリ」という言葉とそれによる思考が、箕輪さんのような「やりたくないことはやらない」というキャリア観に繋がるのではないかなと考えています。
最後に
以上が自分の今までを振り返ったうえで、箕輪さんのようなキャリア観を一般化するための手段について考えてみた結果です。
気づいたら3000字超えていて、やっぱり文章を書くのって楽しい。
これで誰かの学び、気づきに繋がっていたら最高なのだけど。
もし学びや気づきになったよって人がいれば、Noteのスキやいいね、リプ、引用リツイートなどで教えてください。
Note書くモチベーションになります。
違和感や反対意見をお持ちの方も、もしよければコメントやツイートなどでご意見いただけたら嬉しいです。
記憶が褪せないように徹夜で書いたので非常に眠いです。
という記述を誤字脱字やいかれた論理に対する免罪符として残しておきます。
おやすみなさい。