僕が写真を撮る理由
最近一眼を購入しまして、毎日持ち歩くくらいに写真を撮るという行為を愛しています。
でもその前から写真を撮ること自体は好きで。
去年の夏くらいから撮るようになったと記憶してます。
でも僕が撮るものは他の人からすれば「よくわからない」らしい。
確かに僕がSNSに上げるのはいわゆるインスタ映えみたいな写真でも友人たちと一緒に写る写真でもない。
じゃあ自分は何を撮っているのかというのを文章としてここに残しておこうと思います。
端的に言ってしまえば、僕が撮る対象は「美しいと感じるもの」。
自分が見てぞくっとするような美しさ。
そういう「物」を、瞬間を、カメラという媒体を介して切り取ろうとしています。
別にプロの写真家になりたいわけでもないのに、なんでそんなものを撮っているのか。
と言われれば理由は二つ。
①美しいものを狙いすまして撮る瞬間が好き
②「自分」という存在を表現できる
世の中には美しいものがたくさんあります。
対象物の造形。
纏う空気感。
光の様相。
刹那性。
配置。
色。
それらに喚起される自分の記憶。
あるいはそれらの複合。
そういうものを狙いすまして撮れた瞬間の快感たるや。
狩人が動物を狩る瞬間の快感に近いと思ってます。
自分が「人間」であることを忘れ、全てのものと対等な「概念」や「存在」として、美を追求するあの感覚が堪らない。
けれどその一方で、写真を撮れば撮るほど、そしてそれらを並べれば並べるほど、それらによって「自分」という存在が浮かび上がってくるような感覚もあります。
「ドーナツの穴」が「ドーナツ本体」によって定義されるように、「写真」によって「自分」が定義、表現される。
そんな感覚です。
「正義」「幸福」「善」という概念と同様、「美」という概念は定義が難しく、「自分」というものが強烈に定義に反映される。
「なんとなくこんな感じ」というものはあっても、じゃあ言語化してみようとすると言葉につまる。
言葉だけでは定義できかねる「美」という概念の定義を、「写真」というツールを使い、組み合わせることでより深くまで追い求める。
そして、その定義を通して自分自身を理解する。
それが僕のやりたいことなんだろうなと思います。
恐らくアーティストがやっていることもこういうことなんだろうなと思います。
「分かりにくいもの」、いや、もはや「答えが一つでなく正解がないもの」を、自分なりに解釈し、定義し、他の人もそれを認知できる形で表現する。
その繰り返し。
僕はまだその入り口に立っているだけ。
けれど、これほど重要な訓練もそうそうない。
こういうことができない人間には深みがないと思うんですよ。
人生をゲームに例える人間、「結局は〇〇が全て」なんてことを本気で言ってしまう人間なんてのはまさにそう。
それはそれで幸福な人間なのかもしれないけれど、妄信し続けるだけの人生は美しくない。
まあ僕も偉そうに言えるほど深みのある人間でも美しい人間でもないけれど。
正解がないものを、自分なりに解釈し、定義し、一方ではそれを信じ、行動しながらも、他方ではそれに常に疑問を投げかけ続け、より良いものを目指し続けていく。
それこそが生きるということだと今の僕は考えています。
深みのある美しい人間になりましょう。
もしこういう訓練しなきゃと思った方がいれば、是非自分が美しいと思う写真を撮って送ってみて下さい。
それではさようなら。