「空っぽで満ち足りた、花かごひとつ」ヒスイの恋の2000字
はじめて恋した人が、あらかじめ裏切りを仕込んでいたと知る。
そのとき、ひとはどんな顔をするのだろうか。
霧の朝、私は姫さまを見る。
王宮の庭で花を剪る少女の顔。
はじめて恋した人に裏切られた乙女。
生まれて以来ずっと一緒にいるけれど、こんな姫さまを見るのははじめてだ。
朝霧のように白い顔。
痛いような、悲しいような顔をしてくれていれば、まだよかった。
そんな感情さえも使い果たしている。
ちょきん、ちょきんと鋭い音を立てて、姫さまのハサミが花々を切り落としてゆく。
今朝は、くすんだ色合いの地味な花ばかりを選んでいらっしゃる。
この庭は姫さまが丹精こめて世話をなさり、木々の挿し木も怠らないで手入れしている聖域だ。
いつもなら晴れ晴れした顔で、花を選んでいらっしゃるのに。
今日ばかりは、深刻だ。
「姫さま、この花をどうするのですか」
答えはない。
ちょきん、ちょきん。
かごに盛りあげられた花は、霧をまとってぐったりしている。
姫さまが、よほど心うつろに取られたのだろうか。なかには根が付いたままの、ひねこびた白い花もある。
私はかごをもって、姫さまのあとをついて歩く。
心の中で、姫さまをうらぎった男を呪っている。
我が国の秘密を盗みだすために、姫さまにちかづき、だまそうとした男だ。
わかく、うつくしく、姫さまのさびしさに付け入った男。
隣国の大使であるパッとしない王子に、ついてきた侍従だ。
私はヤツをゆるさない。
ちょきん。ちょきん。
庭から戻ると、隣国へ帰る大使王子が、王さまに謁見を申し込んでいた。
あの男も一緒だ。
狙っていたものが手に入らないとわかったから、諦めて帰るのだ。
我が国の貴重な秘密は、ついにヤツの手に入らなかった。
姫さまが、断ったから。
そしてヤツは姫さまを、捨てた
王さまが謁見の間へ移動しようとすると、姫さまがいった。
「お父さま、わたくしも同席してもよろしいでしょうか。
大使さまに差し上げる花束を作りましたの」
王様はうなずく。
私はふたりの後ろを歩いていく。
手にはかご。朝霧の気配をまとった花束が入っている。
茶色や暗褐色、くすんだ色の花々が横たわっている。
花かごから、ジャスミンに似た芳香がした。
パッとしない隣国の大使王子は、いつ見ても大仰に礼をする。あたまが床につきそうだ。
以前、あの男は姫さまにおもねるように
『うちの王子は、まるでおじいさんみたいなしぐさをなさるので』と言い、
姫さまもかすかに笑っていらっしゃった。
そう言った男はいま、大使王子の後ろに控えている。
自分の利益のためだけに、姫さまの心をこじ開け、
欲しいものが手に入らないと分かったら、こじ開けたまま逃げていく男だ。
オニだ。
クズめ。
私はぎゅっと、花かごを握りしめる。
この花々が地味な色合いばかりなのが、せめてものウサ晴らし。
あんな卑劣な男とパッとしない王子には、バラやユリではなく、茶色や暗褐色の花がお似合いだ。
大使の長々とした挨拶が終わりに近づき、姫さまが私を手まねきした。
「——花を」
くすんだ花束を手に取り、姫さまはすべるように歩いていく。
大使の王子に一礼し、後ろの男にむかって花束を差し出す。
「我が国の思い出に」
男は退屈そうに顔をちょっとだけ、あげた。
地味な花束を見て鼻を鳴らした。乱雑に受け取る。
それを見ていた大使王子の目がきらりとした。
「その花は、僕が受け取りましょう」
姫さまはハッとして、体をこわばらせた。
……なぜ?
あんな花束、誰が持っていても同じでしょう?
くすんだ茶色と暗褐色と、ほんの一本だけ白い花が混じっている花束。
雑に扱われた白い花には、まだ土まみれの小さな根っこすらついている。
……土と、根っこ……? 花束に?
大使王子は侍従から花を受け取り、うやうやしく姫さまの足元にひざまずいた。
大仰な、時代がかったおじいさんみたいなしぐさ。
だけど丸くした背中からは、誠実さが匂っていた。
「僕の国には花を乾燥させて、永遠に続く花輪に変える技術があります。
姫から頂いたこの花をこのまま未来永劫続く花輪にして、僕が、再びこの国に持ってまいりましょう。
一本たりとも減らさずに。
この花束、そのままに」
姫さまの口が開いた。
果実のような唇からかすれた声がこぼれる。
「……この花束を……乾燥させる?」
「ええ」
「そしてまた、この国に戻ってくる? 一本の花も欠けずに?」
「ええ。一本も欠けずに、このままで。
戻ってくるのは、花だけではありません」
パッとしない大使王子はひざまずいたまま、しずかに首を垂れた。
「僕も、この国に戻ってきたい。
次はあなたの許婚者として。この花束とともに」
姫さまは、目を大きく開いて、じっと大使王子を見つめていた。
王さまが声をかける。
「姫、どうする。この婚約は成立したと思っていいのか。
大使は第四王子だ、この国に婿入りしてもいいと言っておる」
姫さまは目を閉じて、ふたつ、みっつと大きく息をした。
柔らかな肩が上下を繰り返し、やがて静まった。
目を開く。
朝霧が晴れた後の空のような青色。
「この花束を、一本も欠けずに永遠の花輪にしてくださるのなら、
お戻りをお待ちしております」
大使・王子はくすんだ花束をぎゅっと握りしめた。
「わが身に変えても、すべてこのまま、永遠の愛に変えてお持ちしましょう」
こうして、隣国の王子は姫さまの許婚者となって謁見の間を出た。
後に続く侍従はキツネにつままれたような表情で、後ろも見ずに出ていった。
あとには、かすかな芳香がいつまでもただよっていた。
ジャスミンに似た、甘い香り。
この香りには、おぼえがある。
王宮の庭にある、いっぽんのコーヒーの木。
10メートルにもなる大木は年に一回、わずか2日間だけ花を咲かせる。
真白な花。
のちの実りを約束する、白い宝の花だ。
姫さまが丹精こめて育てていらっしゃるコーヒーの木。
我が国に巨額の富をもたらしているコーヒーは、貴重な財源だ。
姫さまは挿し木をして、木を増やす努力をしていらっしゃる。
それほど貴重な木だから、とうぜん、門外不出。
コーヒーの木は、この国から一本たりとも出すことを許されない。
そう。一本たりとも……。
あの若い男が狙っていたのは、コーヒーの木の種子。
ヤツは、巨富を約束する貴重なタネを欲しがった。
甘い言葉で姫さまをとかし、だまし、タネを手に入れようとした。
けれどもヤツは、コーヒーの花を知らなった。
白い、ひねこびた小さな花。ジャスミンに似た芳香を立てる花。
姫さまがくすんだ色の花束にしのばせた、最後の愛情だ。
姫さまがゆっくりと部屋を出ていく。
甘い花の香りを婚礼衣装の裳裾のように引き、開かれた扉を通りぬける。
姫さまは、うかつな恋をしりぞけ、賢明な許婚者となって謁見の間をでていった。
甘い花の香りはやがて、風にほどかれて消えていく。
あとには
空っぽで満ち足りた、花かごがひとつ。
やがてやってくる永遠の花輪を待っている。
【了】(約2700字)
コーヒーの花はこちらですー!