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『キャビネットケーキのゆで時間は15分』ヒスイの鍛錬・100本ノック30

 キッチンにバニラのいい匂いがひろがった。ヒスイおばちゃんが卵をボウルに割り入れる。
「澄(すみ)、あんまり空気を入れないで混ぜて。空気が入ると穴だらけのケーキになるから。あー、"穴だらけのキャビネットケーキ"っていうお話を書いてみたらどうかな?」

あたしは笑う。
「ねえ、ヒスイちゃん。なんで急にお話を書き始めたの?」
「んー。なんでかなあ?」
ヒスイちゃんはボウルに牛乳と砂糖も入れた。ゆっくりとゴムベラで混ぜていくと、黄色と白が、砂糖をまとって溶けていく。
バニラと卵の、甘い匂い。
ヒスイちゃんは言う。

「あたしはさあ、何をやらせてもダメなのね。料理はへたくそ、絵は中途ハンパ。でも、書くことは大好きなのね。
だから、好きなことに最後の全力を賭けてみようと思ってるの」

「……あたし、ヒスイちゃんの絵も好きだよ」
「あたしもキライじゃないよ。でも自分の限界はわかってる。がんばっても商用のイラストどまり。それ以上には行けない。
お話はちがうの。まだ先が見えないから楽しい。
ちょうどね、何色のヒナが出るかわからない卵を温めているみたいなの。
ワクワクするよ」

ヒスイちゃんはこんがり焼けた食パンの耳を落として、9等分する。小さな四角になったキツネ色を、オイルを塗った耐熱ガラスカップに入れていく。

「あ、ミカン缶のシロップ、わけとくんだった」
「やっとく」
ザルでミカン缶の実とシロップに分ける。実だけをガラスカップに放り込んで、ついでにレーズンも入れる。
レーズンは多めに。あたしが好きだから。

「新しいお話を書いてよ、ヒスイちゃん。女の子が笛を吹くお話、好きだよ」
「あー、あんたが大食らいっていう童話ね」
「ちがうよ。あたしが世界を救うって話よ」

くくくっと笑って、ヒスイちゃんは静かに卵液をカップに注いだ。
うすく黄色い液体は小さな幸せのようにカップに満ちた。キツネ色のトーストとレーズン、ミカンがおどっている。

「さて、蒸すか」

銀色のお鍋にガラスカップが並ぶ。薄く張られた水がコポコポとお湯になった。
湯気が立つ。
蓋をする。
ヒスイちゃんが言う。

「お話もまだへただからね。ひとつずつ、積み上げていくしかないの。
積んだ先に何もなくても、あたしは後悔しないと思うよ――さて、ひとつお話をかこうかな」

ヒスイちゃんはPCを開けた。
キャビネットケーキをゆでる時間は15分。
ヒスイちゃんがここに来るまでに、30年以上かかっているんだね。
全力を注ぎたいものを見つけるのは、簡単じゃない……んだろうなあ。

あたしは、いつ、何を見つけるんだろう。
っていうか。何かを見つけられるのかな。ずっとこのまんまで、終わっちゃうんじゃないの? ぜんぜん自信ない……。

湯気のなかのガラスカップを見る。
うすい黄色の中で、キツネ色のトーストとミカン、レーズンがほたほたと揺れていた。

キャビネットケーキのゆで時間は15分。
卵が固まるまでの、時間だ。
あたしのお腹がぐうっと鳴った。
未来に向かって、ぐうっと鳴った。



【了】

作中で澄が言う「笛を吹く女の子の話」はこれです。女の子が世界を幸せにする、小さな童話です。




#NN師匠の企画
#ヒスイの鍛錬100本ノック
#お題は・たまご


ヒスイの100本ノック 今後のお題:
だんごむし←ポップコーン←ゴミ←三階建て←俳句←舌先三寸←春告げ鳥←ポーカー←課題←タイムスリップ←蜘蛛←中立←バッハ←メタバース←アニメ←科学←鳥獣戯画←枯れ木←鬼←ゴーヤ



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ヒスイ~強運女子・小粋でポップな恋愛小説家
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