「かなしみは、僕の後ろで時雨に巻かれ」ヒスイの2000字ショートショート
「かなしみは檸檬の色に糸を引く
僕の後ろで時雨に巻かれ」ヒスイ
姉の頭上には、いつだって金色の冠が乗っている。
『よくできた妻』『才能あふれる画家』『心地よい友人』。
冠はまるで姉の一部のように、しっかと後頭部に生えて姉が動くたびにかがやく。
金色のしずくが振りまかれる。
姉から10年も遅れて生まれた私は、三人兄弟の真ん中で。
絶対王者の姉と、待ちわびられた弟の間に挟まって
あやまちのように存在していた。
いつだって、姉がいた。
どこにだって、姉がいた。
私と姉がごくごくまれにケンカするとき、原因はいつも私にある。
毛並みの悪い犬が、よく手入れされた血統書付きの犬にかみつく感じ。
口を開ける前から、負けが決まっているような勝負ばかりだ。
それでも、絶体絶命の負け犬は後ろを見ずに姉に突っ込む。
たったいま、理屈のあわない捨てぜりふを姉に突き立てたみたいに。
「だからさ、なにげなく賞を取ったり有名ギャラリーから個展の話を持ち込まれたりする人には、コッチの痛みはわかんないってのよ!」
感情的な言葉を犬歯の間にひっかけたまま、私は夕暮れの町へ出ていく。
あるく。
あるくあるくあるく。
一体ほかに、何ができるんだろう。
絵を描きはじめたのは、私が先だった。
色鉛筆、クレヨン、絵の具、パステル。
自宅にあったものを使い、カレンダーの裏に幾何学模様を描きまくった。
まっすぐな線が書けるようになるまで1年かかり、
なだらかな曲線には2年かかり、
色と構図とモチーフのバランスを取るのに、4年かかった。
それでも、私の絵には何か決定的なものが欠けているらしい。
素描もダメ、水彩もダメ、パステルも見込みがなく、油彩は絶望的。
毎日泣きながら描いている私の横で、
姉は淡々を美しい描線を描いた。
角度、強弱、カスレ、跳ね。
私が欲しかった線はすぐ隣にあった。
姉が絵を描きはじめて3年もすると、私たちの違いがくっきりしはじめた。
姉の描いたものは、たちまちコンテストに出すようすすめられ、
出せば必ず賞を取った。
それも優等生の姉らしく、まず佳作を、つぎに優秀賞のひとりになり、最後はあっさりと最優秀賞を射止めた。
姉は、花柄のワンピースを着て、にっこり笑って賞状をもらった。
その横で、私はだまって立っている。
他にやる事もないから。
称賛を浴びる姉の横で静かに立つ以外に、この胸中の憤怒を消す方法を知らないからだ。
なぜ姉は、よりによって絵の世界へ踏み込んできたのだろう。
ピアノでも、お習字でも、スポーツでも、姉はきっといい成績をとったはず。
なのになぜ、絵の世界へ?
唯一、私が時間を見失うほどに集中できる色と描線の世界へきたのだろう?
夕暮れの大通りを歩き、人にすれ違うたびに脇道へ入る。
ふと気づくと、路上の黄色い線が私の足元から伸びていた。
線は伸びた先でぐにゃりと曲がり、こちらへ向けてまっすぐな矢印を差し向けていた。
私が踏んでいるのは、大きなバツ印。
『転回禁止』の道路標示だ。
うっかり車道にでてしまったらしい。
逢魔が時、世界がうっすらと金色のもやにかすむとき、
私の足元にはバツ印がついている。
いつだって、私にはバツ印がついている。
とりはずせない刻印のように。
車が来ない道の上で、私は途方に暮れている。
足元では、黄色い矢印が後ろへ戻れと言っている。
おまえには、未来はないから。
だまって尻尾を巻いて、後ろへ戻れと、言っている。
ぱらぱらと雨が降りはじめ、髪に、肩におちてくる。
裁縫のマチ針みたいに、時雨が私を黄色のバツ印へ縫い留める。
ここから先は、何もないのか。
期待と希望にはさまれた中間子には、何もないのか。
かなしみは檸檬色によく似ていて、
私の足元でとけ、流れ、糸を引き、
時雨に巻かれて側溝へ流れ落ちていく。
その滑らかさは、まるで約束されている絶望のようで。
私はますます、ここから動けない。
そのとき、背後から傘がさしかけられた。
姉の香水のにおいがする。
「あんたは昔から、足だけは速いんだから」
「姉ちゃんは、かけっこだけはダメだったよね」
「いつだって逃げ足が速くて、だからあんたを見ると、腹が立つのよ」
ぱらぱらと傘の上で軽快な音を立てて、雨粒が踊っていた。
姉が泣いている音がした。
「あたしは、お姉ちゃんになりたかったよ」
「しってる」
「どこにいても褒められて、何をやっても評価される。
金色の冠をつけて、すべるように踊っているお姫さまになりたかった」
「そして私は、いつだって自由なウサギみたいに家を駆け抜けていく、あんたになりたかったの」
かなしみは檸檬色によく似ていて、
姉の足元でとけ、流れ、糸を引き、
時雨に巻かれて側溝へ流れ落ちていく。
その滑らかさは、逃れられない責任のようで。
姉は背筋を伸ばすしかない。
いつだって。どこでだって。
「先に帰るわね」
姉は持ってきた深紅の傘をひろげて、時雨の中へ消えていった。
私は黙って、姉がくれた傘を広げる。
ぱしゅっ。
「……なんなん、コレ」
姉が持ってきたのは、黄色いジャンプ傘で。
明らかに子供のもので。
どうみたってサイズがあっていなかった。
「なんなん、コレ!!!」
私は、金色の冠のかわりに、檸檬によく似た香気を立てる子どもの傘をさした。
そして『転回禁止』の道路標識を踏みしめて、歩き出した。
まだ帰らないよ。
この先にきっと、私の冠が落ちていると思うから。
【了】
「かなしみは檸檬の色に糸を引く
僕の後ろで時雨に巻かれ」ヒスイ