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『波にただよう 紙を乾かせば』ヒスイの鍛錬・100本ノック㊳

午後のカフェに、木崎(きざき)の若い声が響いた。

「じゃあ、太田(おおた)さん。
前回の仕事で契約終了に、してください。
僕は、あなた方を利用できると思ったからメンバーになりました。
一緒に働いてフリーランスとしてのノウハウはいただきましたし
顧客の傾向やデータも取りました。
これで終わりです」

向かい合っていたヒスイはマスクの下で、あんぐりと口を開けた。となりにいた太田は年配者らしく、ゆるやかに笑っただけだ。

「ふうん。独立するの?」
「いいえ。根岸(ねぎし)さんの事務所で契約社員になります。
根岸さん、いまK社の仕事をしててノリにノってますよ。
20代の感性が欲しいそうです、僕みたいな。
じゃ」

木崎はカバンを持つとさっさと行ってしまった。打ち合わせで使ったカフェの支払いは一円もしない。そういう細かいケチさのある男だった。
ヒスイはコーヒーを手に取ってつぶやいた。

「ずいぶん、あからさまでしたね。理解できないなあ……ジェネレーションギャップかな」
「年代の問題じゃない、と思うよ」
「根岸さんの事務所に行くって言ってましたね。あそこ、厳しいです。やれるのかな、木崎くん」

ふふ、と太田は笑った。ふだんはエビス様のような顔が、ふいに、邪悪さを帯びる。

「ヒスイさん、去年のK社のコンペ、覚えてる?」
「もちろん。根岸さんにやられましたね。作品レベルは互角だったと思いますよ。最後に金額で負けましたけど」
「――あれね。うちの金額を流されたんだ。根岸のところに」

え?? とヒスイは目を丸くした。

「金額を流された? ――だれがやったんです?」

ほわっとエビス顔が笑った。

「ヒスイさん。うちのチームは僕とあなたと、もう一人、でしょ」
「……木崎くん? まさか」
「この業界、”まさか”なんて事は山ほどあるよ。
あの後も彼は情報を流してたね。
ほら、機械金型のS社……」
「あれは競り勝ちましたよ」
「うん。僕が木崎くんに、うそを教えといたから。プレゼン当日の彼の顔、おもしろかったなああ」

カフェのざわめきが、静かになっていく。ヒスイはコーヒーの入った紙カップを握りしめた。

「……あいつ、ゆるせない」

太田は少し黙った。シャツの襟もとに指を入れて、軽く引っぱる。
それで息がしやすくなる、とでもいうように。

「どうでもいいよ、もう。かかわりのない人になったんだし。
彼だってね、本音では、根岸の事務所へ移って良いことがある、なんて思っていないよ。
ただ逃げ出したかったんだね。
こちらから見ていて、木崎くんが少しずつ追いつめられていくのが、よくわかったよ。自分の裏切りに耐えられなかったんだね。

ここじゃないどこかへ行けば、全部を白紙に戻せる。楽になる。
そう思っているんだろう――自分が追い出された、とも知らずに」

「追い出された……??」

ヒスイの手の中で、紙コップがどんどん冷たくなっていった。

「追い出されたって、どういうことです?」
「根岸の事務所が木崎くんを呼ぶように、ちょっと細工したんだよ」
「円満な別れ、ってやつですか?」

太田は首を振った。

「爆弾さ」
「ばくだん……」
ずいっとヒスイの前に太田の人のいい顔が出てきた。
顔ぜんぶが、笑っている。
目だけが、笑っていない。深度のありすぎるクレバスのように、暗く、深く、冷たい目だ。

「ヒスイさん、人間ってね、自分の本性からは絶対に、逃げられないんだ。
弱虫は、何度も心が折れる。
軽薄な人間はよほど覚悟しなければ、軽薄なまま。
そして裏切りグセのあるやつは、必ずまた裏切るよ」

ヒスイの喉が、コクッと鳴った。低い声で言う。

「木崎くんは――いずれ根岸さんを裏切る。
それが分かってて、彼を出したんですね? 根岸事務所に爆弾を仕込んだ……」
「それを選んだのは根岸だし、木崎くんだ。そうだろ?」

まわりの雑音が波のように高くなる。
高く、低く。
繰り返しやってくる波のように。
ヒスイは波に合わせて、大きく呼吸をした。

「あたしは、裏切りませんよ」
「どうだろうね。僕はどっちでもいい。
それが自分のスジなら、貫きとおすのが大事だ。
スジってやつは、一度投げすてたら二度と戻ってこない。濡れた紙が、乾いてももう使い物にならないのと同じだよ。

――さて、打ち合わせ、やっちゃおうか」


>゜))))彡 >゜))))彡 >゜))))彡

あの日からずっと、ヒスイには波の音が聞こえ続けている。
仕事がうまく行かず、何もかもを投げ捨てたくなる時は、太田の声を思い出す。踏みとどまる。

『自分のスジってやつは、一度投げすてたら二度と戻ってこないから』


ヒスイは今も、太田と組んで仕事をしている。
根岸事務所に移った木崎は、はじめこそ調子が良かったが、やがて他のスタッフとぶつかるようになり半年後に独立。そのまま消えた。
この業界は流れが早い。もう彼の名前を憶えている人もいないくらいだ。

"あなた方を利用した"と、あからさまに言いはなった木崎の信念は、今も波をただよっている気がする。
どこかの海で見つけたら、拾い上げて、乾かしたいとヒスイは思う。

それは利己的すぎる若い男の、はかなくもろい信念だったのだ。


【了】

本日は、ちょっと にがいお話になりました。
会社員でもフリーランスでも、ときには信念を試される場面があるでしょう。そこでどう行動するか、が大事かなと思うのです。


今日は、『金曜日・へいちゃんと一緒に企画💛』です。
へいちゃんの記事は、コチラ。
なんかこう、全体的に。エラそうで笑えた、「あから様」が(笑)。


前記事に、たくさんの心のこもったコメント、ありがとうございます。
明日はちいさなヒスイ日記を出す予定。
少しずつ、書いていきます。
書くことで、一歩ずつ歩ける気がするのです。

ではまた、明日。
この世界の全部に、感謝を。


#NN師匠の企画
#ヒスイの鍛錬100本ノック
#お題・あからさま

ヒスイの100本ノック 今後のお題:
こんな(そんな)つもりじゃなかった←的中←アナログレコード←ミッション・インポッシブル←スキャンダル←だんごむし←ポップコーン←ゴミ←三階建て←俳句←舌先三寸←春告げ鳥←ポーカー←タイムスリップ←蜘蛛←中立←メタバース←鳥獣戯画←枯れ木←鬼

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ヒスイ~強運女子・小粋でポップな恋愛小説家
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