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「今夜みたなかで、一番しろく甘い泡」#シロクマ文芸部
『海砂糖』という言葉をはじめて聞いたのは、4歳のときだ。
熱帯夜。眠れなかった私の耳に、母の声が聞こえた。
「だからこそ、うみさとう、なのよ」
うみさとう?
何のことだろうと考えるうちに、目の前にふんわりした砂糖の泡があらわれた。
白くて甘くて、ふわふわしている。
ああ、綿菓子だ。おとといの夜、夏祭りで買ってもらった綿菓子だ。
おもいだしたとたん、口のなかにやわらかい甘みが広がった。
鼻へぬけるにおいは、かすかに焦げた優しさ。
母のにおいだ。
そして年が過ぎ、世界はしだいに柔らかくなくなった。
気温が上がって南極の氷がとけ、海水面が上がりはじめた。このまま陸地が水没するかも、と言われていたが、別のことが起きた。
熱波のせいでどんどん海水が蒸発していく。1時間ごとに滝のような豪雨が降り、人間は地上に住めなくなった。
20××年、私たちは炎暑を避け、地中ふかくに作った地下都市で生きている。
スコールの水は地下都市にたくわえられ、循環している。そのため地上に 降る雨は激減。海水はひたすら蒸発しつづけた。
地上に設置したカメラがカラカラに干上がった陸地と、どんよりよどんだ海を映しだす。海水の塩分濃度は20年前の10倍。
もはや海には生き物は存在しない。
空っぽの、どろりとした海。
すべての海水が消えたら、私たちはどうなるのだろう。
私は老いた母とともに、1秒ごとに蒸発し、下がっていく海水面を見つめていた。
ある夜、カメラが写した海面は深紅になっていた。ニュースキャスターが伝える。
「今夜は赤い月が昇っています。地上の平均気温は45度を超え、海水はあと1年ですべて蒸発すると計算されています」
ほう、と隣で母が息を吐いた。
「赤い月、うみさとう」
「えっ?」
母はゆっくり立ち上がり、部屋を出ていく。
「おかあさん?」
「行かなくちゃ」
「こんな時間に、どこへ?」
「——うみへ」
母は足を引きずりながら出ていく。
「赤い月は約束の月。私たち、『海砂糖』が呼ばれているの」
あわてて後を追う。
「おかあさん、何を言っているの? 海へなんていけないわよ。地下都市の外は夜でも30度の熱帯夜よ」
しかし母の弱った足は、想定外に早かった。地上へ出るエレベーターの前でようやく追いつく。
「おかあさん、帰ろう……えっ、この人たちは?」
広いエレベーターホールは人でいっぱいだ。向かいの部屋のおじさん、中学校の先生、お医者さん。顔見知りも、知らない人もたくさんいた。
全員がふだんどおりだった。ついさっきまでリビングでお茶を飲んだり本を読んだりしていたかんじ。
だけど静かな気配が、あたりに充填していた。
おじさんがこっちを見た。
「おや、あんたの家系も『海砂糖』だったかね。
近くに住んでいても、わからんもんだな。まあ、言いふらすものでもないしな。しかし、その子も連れていくのかね?」
母は答えた。
「いいえ。ただ、『口伝』にしようと思って」
ああ、とおじさんはうなずいた。
「それも大事な使命だ。おっと順番が来た」
おじさんと母はエレベーターに乗った。扉が閉まる前に、私もすべり込んだ。
『海砂糖』『約束の赤い月』『口伝』。
いったい、何のことだろう。
20年ぶりに出た地上は、熱気のうずだった。深夜なのに汗が噴き出すほどに暑い。
エレベーターを出た人々は、まっすぐに道をたどった。
「どこへいくの、なぜ行くの?」
母が答える。
「海へ。海への道は『海砂糖』のDNAに刷り込まれているから、地球のどこにいても分かるの」
「地球のどこにいても? おかあさん、いったい何が起きているの?」
ひた、と足が止まった。無数の足の先に、どろりと濃縮されたどす黒い海がある。
どうしようもない不安が沸き上がってきた。声がふるえた。
「おかあさん、何をするの?」
母はかすかに笑った。
「『海砂糖』は、太古の昔から、海の塩分を中和する役割をもっている一族なの。
地球はこれまでに、何回も気候変動に見舞われてきた。
たいていの変動は海自身が中和するのだけれど、数万年に一度はどうにもならないことが起きる。
そのときに海を中和するのが、『海砂糖』なの」
「うみを中和……」
茫然とつぶやくと、母はそっと私の肩を叩いた。
「あんたは、今回の『塩抜き』に参加しない。かわりによく見ておくのよ。
次の世代に伝えるために」
「つぎ?」
母は、申しわけなさそうに言った。
「『海砂糖』は家系だから。あんたも『海砂糖』よ。次に月が赤くなったら、海に呼ばれる」
「呼ばれたら、どうするの、お母さん」
「使命を果たすのよ」
母の言葉がきっかけだったように、群れをなす人々は、ひとりずつ、どす黒い海の中へ入っていった。
腰まで入る。そのままゆっくりと、どろりとした海水に体を沈めた。
ほわん。
『海砂糖』が消えると、白いふわふわの泡が海面に浮いた。泡のまわりだけ、蒸発しきった海が透明になった。
同時に、あまい匂いが海上に立つ。一瞬だけの綿菓子のかおり。
ほわん。
ほわん。
ほわん。
黒いタールのようだった海に、白い泡が次々と浮かんだ。
ほわん。ほわん。ほわん。
『海砂糖』がとけるごとに甘い香りが流れて、海が透明になっていく。
どろどろの海水が、ゆるやかな希望になって広がり始めた。
母が言う。
「あんたの子どもと、子どもの子どもに伝えておくれ」
「なにを言えばいいの、おかあさん」
母はすうっと笑った。
「『海砂糖』は、すべての源。またどこかで、会いましょう」
「おかあさん!」
母は海に入った。
にこりと笑って手を振ると、その夜に見たなかで一番白い、やさしい泡になって海にとけた。
母の甘い香りで、くん、と海面が数ミリ、上がった。
赤い月が沈んだ後、私はひとりで海辺に立っていた。
すべての『海砂糖』は泡になり、おそらくは世界じゅうの『海砂糖』が白い泡になり、中和された海はゆるやかにうねりはじめた。
命が、ゆっくりと戻ってくる。
いつかまた、どこかで、会いましょう。
それまで私は『海砂糖』の使命を1秒ずつ全うしていこう。
母が残してくれた命を、次の世代につなげるために。
【了】(約2500字)
今日は小牧幸助さんの企画、#シロクマ文芸部 に参加しています。
前回のシロクマ文芸部「銀河売り」は、こちらです!
その前は、「ガラスの手」でした。
シロクマ文芸部は、毎回、不思議な冒頭が指定される企画です。
不思議すぎて
出てくる物語もとっても不思議です!
ヒスイはどれも、とても好きです。
明日はお休みです。
火曜日にお会いしましょう。
ヘッダーはUnsplashのHaley Phelpsが撮影