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「4歩あるいて、緑のどんぐり」ヒスイの2000字ショートショート

おれの目の前に、数字がある。
『IQ 189』。俺の数字じゃない、7歳になる息子の数字だ。

どこかひんやりと形よく見える数字をはさんで、テーブルの向こう側には紺色のスーツを着た女性がいる。
ダークレッドの唇がひらく。

「息子さんは、数十万人に一人という天才児です。このまま放置しておくのはもったいないでしょう。当大学には、息子さんを受け入れる用意がありますが、いかがですか」
「……いかがといわれても……」

おれは窓の向こうに目をやった。
うちの裏庭は深い森につながっていて、夏の終わりには雑草が目に痛いほど育って、広がっている。
その上を息子が歩いていく。

歩き方が、おかしい。
手足の使い方をマスターしていないみたいで、ぎくしゃくと動いている。
ときどき、頭を左側にかしげる。
よく見ていると、4歩あるいてかしげ、4歩あるいて、かしげるの繰り返しだ。

じぶんで規律を作って、守って歩いているのだ。

彼の作ったマイルールは絶対だ。
邪魔されるとパニックになり、いまでは父親であるおれが抑え込んでも跳ね飛ばすほど、強い力で抵抗する。

仕方がないんだ。
病だから。

だけど、この病のせいで妻は過労になり、離婚して出ていった。
息子は置き去り。

仕方がないんだ。
病だから。

そう思いつつ、夜に天井をにらんで、逃げ出したくなる時もある。
それが。

大学だって?
紺色のスーツは穏やかに話しつづける。

「息子さんのIQは189ですが、実はこれ、正確ではないんです。
測定できる上限が189である、というだけで、実はこれ以上ある可能性が高いんです。
いま、息子さんは何を学んでいらっしゃいますか?」
「……どんぐり拾い」

……は? という相手の声が、ため息のように聞こえた。
体に不用意に空いた小さな穴から、うかつに漏れ出した落胆のように。

「本は、どんなものを?」
おれはの本を差し出した。
分厚い宇宙工学の専門書。息子が書店でえらんで、その日から毎日、何時間も読みっぱなしのものだ。
おれには、目次の意味さえ分からない。

紺色のスーツを着た女性はきれいな指先で本を取り、ていねいに表紙を撫でた。

「……トップ水準のの大学院性が読むレベルの本ですね」
「そうですか」
「彼は、これを理解していますか?」

たぶんね、の代わりに俺は肩をすくめた。
女性はまた、ため息をついた。

「息子さんの未来を考えるなら、当大学への入学を検討されたらいかがでしょう。学費や寮費の心配はいりません。大学側で負担しますから」
「りょう?」

おれが驚くと、女性は申し訳なさそうに言った。

「私どもは全寮制です。すべての学生が寮に入り、集団生活をします。
大学創立以来のルールで、これまで学外から通った学生はいません。
寮に入らない限り、入学は許可されないのです」
「寮って……息子はまだ7歳だが」
「例外は、ありません」

うちの息子は例外だらけだが?
そう言いたかったが、窓の外から不審な物音が聞こえて言いそびれた。

鮮やかな緑の絨毯の上で、
行き先を木にふさがれた息子が、
4歩あるいて首をかしげるルーティンを繰り返していた。

首をかしげるたびに、額と木の幹がぶつかる鈍い音がした。

ごつん・ごつん・ごつん・ごつ……。

にげだしたい。
ふいに、おれは口を開いた。
「あんたに、息子を預けよう」
「では、2週間後に迎えに参ります」


その夜、息子にパジャマを着せながら言い聞かせた。
「なあ、おまえ、思いっきり勉強したいんだろ? ここじゃあロクな先生もいない。もっと大きな学校へ行かないか?」
「どうかなあ…そこ、『コーシセツにおけるミカイケツモンダイ』の話できる?」

息子の言葉が『数学の格子説における未解決問題』であることを突き止めるのに、おれはウィキペディアをさかのぼって2時間かかった。
息子を大学へ入れることは、間違いじゃない、と納得した。

ベッドに入る。
息子はすでに寝息を立てていて、ほっぺたを月の光が照らしていた。
白いシーツに、あざやかなエメラルドグリーンがころがっていた。

「……緑のどんぐり?」

時折、ミズナラのどんぐりが緑のまま、落ちていることがある。
犯人は『ハイイロチョッキリ』という虫だ。

こいつはどんぐりの中に卵を産み、枝を切り落とす。
切り落とすのは幼虫が土に入りやすいようにするためだというが、切り落とさない親虫もいるから、正確なところはわからない。

息子はこの緑のどんぐりが大好きだ。
何時間もあきずに探し、ポケットいっぱいになるまで詰め込む。
洗濯するときに出すのが一苦労だ。

「たいへんなんだよ、おまえと暮らすのは」
そう言いながら、手を伸ばす。
柔らかい髪、柔らかい頬、ツンと尖った鼻はこの先もこのままだろうか。
あるいは別の形になるのか。

月の光が満ち満ちる。
白いシーツの上には、ハイイロチョッキリの卵を包んだ緑色のどんぐり。
そして息子は、うちにいる。

いまは、まだ。


******

秋がおわって冬になり、ようやく春が来た。
茶色に枯れはてた地面の上に、ぽつりぽつりと新芽が出てきた。
おれは裏庭のミズナラを見上げた。
新緑の、気配がしている。
これから新しく生まれる、猛々しいほどの命の色だ。

おれの耳は、小さな足音を待っている。
1、2、3、4。4歩あるいて頭をかしげる。
どんぐりをポケットいっぱいに詰め込んだ足音を。

「——とうさん」
「ああ」
「このミズナラ、また伸びたね。ぼくは子供の頃、こいつのドングリが大好きだったよ、覚えてる?」
「ああ。十八になるまで、ポケットいっぱいに詰め込んでいたな」
息子はくくっと低い声で笑った。

「十八じゃないよ、ぼくが大学へ行ったのは十七だったろ」
「一年くらい、どうってことない」
「まあね。まったく、ここの春は、天国みたいだ。毎年、大学から戻ってくるのが待ち遠しかったよ」

すっかり背が伸びた息子は体をかがめて、どんぐりを手に取った。
冬を越えた茶色い楕円。日差しが満ちて、どんぐりがつやつやと光った。

おれは目を閉じた。遠くから足音が聞こえる。
1、2、3、4。4歩あるいて頭をかしげる。小さな足音。

「おじいちゃん。ぼく、緑のどんぐりを見つけたよ! なんで緑なの?」
「そいつぁ特別製なんだ。お父さんに聞いてみな」

彼のポケットはすぐにいっぱいになる。
どんぐりと夢と未来でいっぱいになる。


ある晴れた日に。


【了】


今日のお話は こちらの本を下敷きにしています。

2歳で自閉症と診断された息子を育てた、お母さんによる育児本です。
息子であるジェイコブ・バーネットは9歳で大学へ入りました。
大学卒業後はカナダの理論物理学ペリメーター研究所にいたみたいです。
以後はよくわからないけれど。

作中のIQ179、これが上限で、本当の数値は良くわからない、というエピソードと、
9歳で大学に勧誘されたけれど寮に入るのが条件といわれ、お母さんのクリスティン・バーネットが拒否。
自宅から通える大学を選んだ、というエピソードは、
クリスティン・バーネットの手記「僕は数式で宇宙の美しさを伝えたい」によります。

ヒスイ、ただいまメンタルが絶不調でして。
こういうときは、いろいろと書くしかないので。

しばらくは不定期になりますが、短いお話を書いて行こうと思います。

ネタがないので、
お題をいただければすんごく喜びます(笑)

では。


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ヒスイ~強運女子・小粋でポップな恋愛小説家
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