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『一日ぶんだけの未来 ~バッハ平均律クラヴィーア第1番』ヒスイの鍛錬・100本ノック㉝へいちゃんと一緒💛

 朝九時、起きたばかりのヒスイおばちゃんはピアノに座る。顔も洗わず、ポサポサ頭のまま鍵盤に指を置く。
 ゆっくりと弾きはじめる。
 曲はバッハの平均律クラヴィーア第1番 ハ長調。前奏曲だけ、三分くらいの曲を弾き終えてから、やっと顔を洗う。
 ヒスイちゃんの、一日が始まる。


「なんで毎朝、バッハなの?」
「あー。これ、バッハだっけ?」 
 朝ごはんを食べながら、ヒスイちゃんはタブレットを開けた。
「この曲の楽譜、見たことがある? 澄(すみ)?」
「ううん」

 ググって、楽譜を出してくれた。
「右手と左手、それぞれが同じパターンだってわかる? ほんの少しだけ音程をずらして、同じ動きを繰り返す。

まるで波がつづくみたいでしょう? 行って帰って、帰ってきては――行ってしまう」

ヒスイちゃんは眠った猫みたいな顔で笑った。
「最後は静かに、メロディが消えてしまう――波みたいに」


あたしはママが言ったことを思い出す。
昔、ヒスイおばちゃんは大事な人をなくしたらしい。そのあとバッハを練習しはじめた。

『ヒスイはピアノが何よりも嫌いだったのに、この曲だけを毎日、練習していたの。最後には弾けるようになった――前奏曲だけ。
この曲は前奏曲のあとにフーガが続くんだけど。ヒスイが弾くのは前奏曲だけね』

 なんで、前奏曲しか弾かないの? って、いつか聞いてみたいな。
 朝ごはんを食べおわったヒスイちゃんは、立ち上がって伸びをした。

「澄、花屋に行こうか。あんたの好きなチューリップが並んでいたよ」



>゜))))彡 >゜))))彡 >゜))))彡

 マンションを出てから、ヒスイちゃんはくしゃみを連発していた。
「もう、花粉が飛んでいるんだね」
「そうだね――ん?」
 ふと、ヒスイちゃんが立ちどまった。お寺の掲示板を見ている。
 警察官の募集、ゴミ分別表、美術館のイベント、そして筆で書いた言葉。

『今日と同じ日は、二度と来ない』

「――ねえ、澄」
ヒスイちゃんは言った。

「なにもなく暮らしていると、毎日が全然変わらないみたいに感じるよね。でも違うんだよ、あのバッハの曲みたいに少しずつ変わっている。朝が来て夜になって、気づいたら別の場所にいる。
不思議だね」

 ふいにどこかから、波の音が聞こえる気がした。
 波が来て、引いて。
 次の波はもう新しい波だ。同じパターンを別の音が奏でている。
 見えないくらいに少しずつズレながら。
 ヒスイちゃんの声が、ちょっとだけ遠くに感じる。

「あの曲を弾いていると世界が壊れてしまう前に戻れる気がするの。でも、起きてしまったことはもう絶対で、何も変わらない。
わかっているんだけど。
毎朝、弾きはじめる前は戻れる気がするのね」

 あたしは手をぎゅっと握った。なんだかヒスイちゃんが、薄い影になっていくみたいだ。
 まさか。
 バカみたい。
 そんなはずない。
 ふわっと影が振り返る。

「ずっと過去でも未来でもないところで止まっているみたいなの。そろそろ、行先を決めてもいいかな」

 うそ。影がどんどん薄れていく。ヤダヤダ!
 足をふんばってぐい、と握った手を引っ張る。
 でも手はからっぽ。思わず叫んだ。

「ヒスイちゃん! なんのために毎朝、バッハ弾いているの? 弾き終わるたびに少しずつ違う場所に着地して、新しく変わって、過去に戻らないためでしょう? ちがうの?
ヒスイちゃんはもう、ここを、選んでいるんだと思うよ。行っちゃわないでよ!」

 影が振り返る。あっ、ちょっと色が濃くなった?
「……いいこと、いうねえ、すみ」
「もっと褒めてよ、帰ってきてよ。チューリップ、買ってくれる約束でしょ」
 あははは、と笑う声が聞こえた。
 影に色がついて、厚みが戻ってきた。最後に、寝ている猫みたいな顔が浮かぶ。
 よかった、いつものヒスイちゃんだ。

「ヒスイちゃん! ……ぶへ……っくしょん!」
「澄、あんた、花粉症がうつった?」
「花粉症はうつらないよ……へっくち!」
「うつってんじゃん」
おバカなヒスイおばちゃん。
泣きそうになったら、くしゃみをすればいいんだよ。ヒスイちゃんのために泣くなんて、なんか、恥ずかしいじゃんか。


>゜))))彡 >゜))))彡 >゜))))彡

 朝九時、ヒスイちゃんの部屋でピアノが鳴っている。

「おはよー。ママがケーキを焼いたから持ってきたよ」
「まだ九時じゃん。こんな時間に焼きあがるって、すごいね」
「ヒスイちゃんが寝坊なんだよ」

 ピアノには楽譜が置いてある。
 バッハの平均律クラヴィーア第1番 ハ長調。
 後半のフーガは4声。一曲の中に4つの旋律が入っている。つまり、むずかしい。

「弾けるようになった?」
「あきらめた」

 ヒスイちゃんは笑っている。あたしはピアノに座って、鍵盤に指を置く。
「ヒスイちゃん、指を乗せて」
「あんた、弾けるの?」
「ママに特訓してもらった」
 ヒスイちゃんはあたしの手に手を重ねた。ふたりで、ゆっくり弾きはじめる。

 同じパターン、でも別の音。メロディは、らせん形を作って何かを追いかけていくみたいだ。
 たぶん、一日ぶんの未来を追いかけている。
 それだけでいいんだと思う。

 一日一日がつながって、明日がくるんだから。


【了】

3.11で被災されたすべての方へ。
ヒスイより心を込めて。
支援の輪、まだ、続いております。
福島県、フルーツがうまいですよー💛


本日のバッハ曲。
なんといってもグレン・グールドが一番とんがっていると思う!


「バッハ」のお題で、へいちゃんも書いてます。
アオハルで、最後は笑っちゃう短編です。
もうね、高校生、こんな感じだったなあ、っていう気がしました!



#NN師匠の企画
#ヒスイの鍛錬100本ノック
#お題は・バッハ


ヒスイの100本ノック 今後のお題:

こんな(そんな)つもりじゃなかった←的中←あからさま←ランドセル←アナログレコード←ミッション・インポッシブル←気持ち←スキャンダル←だんごむし←ポップコーン←ゴミ←三階建て←俳句←舌先三寸←春告げ鳥←ポーカー←タイムスリップ←蜘蛛←中立←メタバース←アニメ←科学←鳥獣戯画←枯れ木←鬼


※なお、今日のお話は100000%、フィクションで!
ご心配なきよう(笑) ヒスイ、花粉症もなく元気であります!
また、あしたね。

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ヒスイ~強運女子・小粋でポップな恋愛小説家
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