『八月、午後四時。白い服をめぐる物語』戦うお母さんのための短編(3800字)
夏服を着た女子高校生たちが、コンビニのガラスドアに吸い込まれていく。
高らかな笑い声が、石井ひかりの動作を途切れさせた。日差しの照り返す駐車場。ひかりの両手は、くすんだ軽自動車から2歳の娘を下ろそうとしている。
女子高生たちの笑い声が、耳に刺さるようだった。
「ばっかみたい、たかがコンビニじゃない」
つぶやいて、乱暴にチャイルドシートのベルトをはずそうとするが、ベルトが引っかかる。同時に娘の優里奈(ゆりな)が暴れだした。
「ゆり、おとなしくしてて、はずれないから」
「やああ! ユリ、おりるうう」
暴れる優里奈の手がひかりの顔に当たる。
「いたっ!」
叫んだ瞬間に、胸元に冷たさを感じた。見おろすと、白いTシャツの胸元にオレンジ色のしみが、だらしなく広がっていた。
優里奈が手にしていたジュースのパックが握りつぶされ、しぶきが飛んだのだ。
今朝おろしたばかりの、新品Tシャツのすがすがしさが失われていくのを、ひかりは茫然と見ていた。
びっちゃりと、布地が胸に張りつく。
このTシャツは、ひかりが結婚前から気に入っているブランドのもので。
Tシャツとは思えない金額だったのを、生活費を3ヶ月も切り詰めてようやく買ったものだったのに。
オレンジ色のしみは、きれいに消えないだろう。ジュースとケチャップのシミを完全に落とすことはむずかしい。これは娘を2年間育てて、ひかりが覚えた知識だ。
結婚してから、ひかりは他に何を覚えただろう。
夫の収入が思ったよりも少なかったこと。
足りない生活費をやりくりするには、食べたいものを常に我慢して、安いものを買うしかないこと。
新しい洋服や美容院代がほしければ、独身時代に買ったものを売るしかないこと。
そして。
子どもは女の人生において、鎖になりうること。
優里奈はチャイルドシートから逃れたくて、暴れ続けている。ジュースの紙パックはまだ手に握られ、中古の軽自動車の内部を汚しつづけていた。
ひかりの背後を、買い物を済ませた女子高生たちが通り過ぎていく。
「えー、まじ? バカじゃないの、そんな男に引っかかるなんて」
きゃははは、と軽やかな笑い声が、ひかりを縛り上げた。
冗談じゃない。
あたしだって、あんなふうだったのに。
高校時代は、ほんの10年前だ。たった10年で、あたしはTシャツ1枚買うのに昼ごはんを抜き、コスメは100均で買うしかなくなった。
だけど、こんなのは、もう嫌だ。
ひかりはスッと、車から一歩下がった。
泣き叫ぶ娘の姿が、遠くに感じられる。
こんなの、あたしじゃない。
こんなの、あたしが望んだものじゃない。
「――もっと、キラキラしたいのよ」
そうつぶやいたひかりは、エンジンをかけたまま、軽自動車のドアを閉めた。ひとり車内に残された優里奈の目が、丸く大きくなっていく。
ふふ、とひかりは笑った。
さようなら、クズみたいな時間。
あたしはあたしに戻るのよ。
ほんの一瞬でもいい。
あたしは、あたしの夏服を取り戻したいだけ――。
子どもを連れずに入るコンビニは、まるで魔法のお城みたいだった。
床は磨かれてぴかぴか。ひかりはふと、髪に手をやった。
「やだ、くしゃくしゃ……」
ヘアアイテムの棚に急ぐ。新しいヘアムースとヘアピン、キューティクルがつやつやになると言うヘアオイルを、かごに入れる。
それからコスメを見る。結婚前に買っていたブランドコスメと比べれば安っぽい容器だが、それでも自宅にある100均とは大きく違う。
ひかりはリップスティックを取り、日にかざしてみた。
キラキラしたメタル容器に、ゴールドのリボンパーツがついている。持っているだけで女子の心を上げてくれるアイテムだ。
つぎつぎにコスメをかごに放り込む。
アイシャドー、チーク、アイライン。パウダー、リキッド、クリーム。
どれもこれも新品の匂いがして、ひかりを微笑ませた。
たのしい。
うれしい。
女に生まれて、おしゃれもしないなんて、生きている価値がないじゃないかしら。
……生きている、価値?
ふっと、ひかりの手が止まった。
とくん、と耳元で自分の脈動が聞こえた。
たったひとりで、ぴかぴかのコンビニの床に立ち、コスメやヘアアイテムをかごに放り込むことが、生きていることなの?
ひかりはオシャレが大好きだった。
洋服や靴が命だった。
でも。
それだけでは満たされなかった。
温かさとやさしさと、地に足がついた安心感が欲しかった。だから、結婚したんだった――。
パアアアアアッ!!
コンビニのガラス窓を突き抜けてクラクションが響いた。
ひかりが外を見ると、金髪の男がスクーターのクラクションを鳴らしてから降りて、軽自動車に近づいた。
車の中をのぞきこむ。
「ゆりなっ!」
ひかりは持っていたカゴを床に乱暴に置くと、コンビニの外に飛び出した。
「なんですかっ! 娘がのっているんですよっ!」
ひかりがそう叫ぶと、金髪の男はびっくりした顔で
「あ、おかあさん? 娘さん、ぐったりしてるよ」
「――え?」
ひかりはあわてて車の中を見る。男の言うとおり、優里奈は目を閉じて、チャイルドシートにもたれかかっていた。
顔が紅い。
ひかりはいそいでバッグから車のカギを出そうとした。が、あわてているせいで、鍵が見つからない。
「ああああ、もうっ!」
がしゃっ! と、ひかりは駐車場のアスファルトにバッグの中身をぶちまけた。
優里奈のおもちゃ、優里奈のタオル、紙おむつ、おしりふき。
優里奈の――優里奈の――優里奈のものばかり。
ぎらぎらと照りつく頭上の太陽がアスファルトに反射して、ひかりの目がくらむ。
カギは、みつからない。
ぼたぼたと汗が落ちる。手がぬるついて、ふるえて、うまく動かせない――。
めまいがしてきた。
ああもうだめだ。
ほんの10分、目を離しただけで、優里奈は死んでしまうんだ。
幸せのすべてが、消えていく。優里奈、優里奈、優里奈――。
ふいにひかりの横から、手が伸びてきた。日焼けした大きな手が、雑多な荷物の中から車のカギをつまみ上げた。金髪の男が、ぶらぶらとカギを揺らして見せる。
「――はい、鍵はこれでしょ。開けようか」
金髪の男は魔法でも使うみたいに、あっさりと車のドアを開けた。
ひかりはとびあがって、チャイルドシートに駆け寄る。
「ゆりなっ!」
ベルトをはずし、優里奈を抱き上げる。
体があつい。
「ゆり、ゆりっ!」
「あー、まず体をさましたほうがいいね」
金髪男は手にしたコンビニ袋から、水のボトルを取り出した。
「ちょい、荒っぽいっすけど。かんべんね」
ひとひねりで水のボトルを開け、首にかけていたタオルに水をかけると、濡れたタオルを優里奈の喉もとに置いた。
「服、のどのあたりを開けるといいっすよ」
「……あっ」
ひかりが優里奈を抱いたまま、のど元のスナップボタンをはずす。むっちりした喉が、あらわれた。
若い男は、また水をかけた。タオルがずっしりと水を含んだ。
「これ、今買ったばかりで、つめたいっすから。あと、俺まだ飲んでねえし」
「あ……ありがとう、ございます」
「ん。あ、目が開いたね」
「あっ、ゆり!」
優里奈は薄く目を開けていた。まだぐったりしている。
若い男は水のボトルを優里奈の口に当てた。
「これ、のめるかな? これ飲んだら、もっとおいしいものをあげるよー」
「……ひゃ」
優里奈の口が水のボトルをくわえる。こくり、こくりと水が体に入っていく。
どっと、温かい安ど感が、ひかりをおおった。
「ああ、よかった。ありがとうございます。あっ、お水のお金――」
「いいっすよ。ウチのガキも同じくらいの年で。よく熱中症になるんすよ。でも、エンジンがかけてあっても車の中はヤバいっすよ、おかあさん」
じゃあ、といって、金髪の男はスクーターに乗った。ヘルメットをかぶり、ばうんとエンジンをふかしてから、優里奈にむかって手を振って見せた。
「あひゃ」
優里奈が水のボトルを持って、笑った。男は、べたべたとシールを一杯に張り付けたヘルメットから金髪をひらめかせて、去っていった。
「――あっ、買物!」
ひかりがそう思ったのは、五分もたったころだろうか。
優里奈はまだ少しぐったりしているものの、水のボトルをオモチャにして遊んでいる。
コンビニの中は涼しいだろう。
買物も放り出してしまったし。
そう思って店舗に入ると、放り出したっきりのカゴはもうきれいに片づけられていた。
ひかりは新しい水のボトルを持ってレジに行き、店員にあやまった。
「あの、すいません、商品を置きっぱなしにして――」
「ダイジョブです。こどもちゃん、ダイジョブでしたか?」
店員はたどたどしい日本語で笑って行った。胸の名札にはカタカナ名が書いてあった。
ひかりは新しいミネラルウォーターのお金を払った。
おつりをうけとったとき、電子音とともに客が入ってきた。
「もー、買い忘れとか、まじないわー」
「ごめーん」
にぎやかな夏服の女子高生たちは思い思いに店内に散る。
あざやかな白い夏服とすれ違いながら、ひかりはぎゅっと胸の中の優里奈を抱きしめた。
「ゆりちゃん、お家に帰ろっか。パパが戻るまでに、ご飯つくろう」
「ごーあーん、ゆり、ごあん、うろん」
「そっか。じゃあ今日はおうどんね」
自動ドアを通ると、二人の背後で軽い音を立ててガラスドアがしまった。
目の前には、明るい空と白い雲がぽかんと浮かんでいる。
【了】(約3800字)
暑い暑い暑いです…
今朝の起床時間が9:50だったのも、
昼間、ほぼ気絶しているのも
ぜんぶ暑さのせいでしょう……。
明日はヒスイ日記をお休みして
仕事の遅れを取り戻します!
木曜日に、お会いしましょうね。ちゃおっ💛
ヘッダーはSasin TipchaiによるPixabayからの画像
NNさまの企画92
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消えているけど【鳥獣戯画】。書いてないです。ぜったいに(笑)