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『花を、ふるい落とせ』ヒスイの鍛錬・100本ノック㉔

 いつも笑っている人が笑わないと、世界が冷えつく。たとえばうちの翠(みどり)おばちゃんみたいな人。
 今、翠ちゃんは真剣な顔で、うちの庭に立っている。ヂャキン! と大きなハサミを構える。パパが右足をかばいながら、植えてあるぶどうの枝を指さした。

「その右の枝を切るんだよ、翠ちゃん」
「はい、お義兄さん」
翠ちゃんはためらいもなく、ぶどうの枝に刃を入れた。
「左も」
 ばしばしばし。
 パパは満足げにうなずいてあたしを振り返った。

「澄(すみ)、コーヒーを入れてくれ。翠ちゃんは昼からずっと働いてくれているから」
「はあい」
あたしはリビングの奥にあるキッチンでお湯を沸かす。庭に通じる窓は開けたままだ。
 翠ちゃんの声が聞こえた。
「災難でしたね、お義兄さん。会社で足をくじくなんて」
「あのコンペは、最初からゲンが悪かった。デザイナーのプレゼンを聞きながら、イヤな予感がしたんだよ」

 パパは笑った。翠ちゃんも笑った。でも声が少し硬い。今日の翠ちゃんは全体的に、沈んでいる。
「すいません、せっかくロゴ案のコンペに呼んでいただいたのに。うまくできなくて」
「翠ちゃんのイラスト、僕はいいと思ったんだ。だが企画部は“悪くないけど……”と煮え切らなくてね」
 パパがそう言うと、翠ちゃんは、すん、と黙ってしまった。やがて口を開く。

「‟悪くない”。そこが私の問題なんです。どれだけ頑張っても“悪くない”どまり。だから今回もメインの仕事は小川事務所に取られて、あたしはサブに回ります。くやしくて、たまりません」
 しゅうううっと、やかんのお湯が沸く。あたしはそっとコンロの火を小さくした。
 パパの静かな声がした。
「僕は、あの小川事務所の作品がベストだと思わないよ」
「でも彼の絵はあちこちの企業ロゴに採用されています。それが結果です。クリエイターは数字が評価ですから」
 キッチンから見ると、翠ちゃんのきれいな鼻筋が平べったくなっていた。顔がすけるように、白い。

 パパが言った。
「小川くんの絵は、たしかに今の時代に乗っている。明るくて、軽くて、ハッピーだ。だけどね、見るものを二秒以上とらえ続けることは、むずかしい絵だよ」
「にびょう……」
 翠ちゃんがささやくように言った。パパはうなずいた。

「これは、僕の個人的な意見だがね、商品ロゴはお客さんを三秒ひきつけられれば、成功だ。三秒見たものは買ってもらえる。だが二秒では棚に戻される。
小川君の絵は、わかりやすくていい。だが二秒どまりだ」
「あたしは二秒すら引き付けられません。だからコンペで落ちたんです」
「では、精進しなさい。何事も継続あるのみでしょう――この、ぶどうですがね」
 と、パパはいきなり話を変えた。

「花が開く前に‟ジベレリン処理”というのをするんです。花一つ一つを薬液につける作業です。これをやらないと‟花ぶるい”という現象が起きて、花が勝手に落ちてしまう。花が落ちると実がつかない。スカスカのぶどうになります」
「スカスカ……」

 翠ちゃんは茫然とパパの言葉を聞いている。パパは平気な顔で続けた。
「‟花ぶるい”は、若くて木に勢いがありすぎる時も起こります。栄養が枝葉に行ってしまうんですね。
だが、悪い事ばかりではありません」

 いつのまにか、翠ちゃんは背筋を伸ばして、じっとパパの口元を見ている。
「ぶどうの実をバランスよくつけるには、摘花っていう作業をするんです。でもね、花ぶるいが起きると自然な摘花になることもある。
食用ぶどうがスカスカでは困りますが、ワイン用は関係ない。むしろ花ぶるいで自然に摘花されて、ベストなワイン用ぶどうになる、という意見もあるんです――僕はね、翠ちゃん」
 パパは翠ちゃんを見た。

「僕はきみに、ただの食用ぶどうになってほしくない。花ぶるいを乗り越えて、最上のワインになれる人だと思うから。だから、次のコンペにも呼びますよ」
 パパは顎の線を鋭くして口を結んだ。しばらく翠ちゃんを見てから、ニヤリとした。

「――次こそは、小川のヤロウをぶっつぶせ、翠」
 ざわわあぁっと、茶色く乾いたぶどうの枝の下を、二月の風が流れた。
 冷たいけれど、春の予感が香る風。
 薄あおく見える風が、翠ちゃんの横顔を駆け抜けていった。



 しゃわわわ、とお湯がやかんから吹きこぼれた。あたしはつい、大声を出す。
「うわっちゃああ!」
 翠ちゃんがキッチンに駆け込んできて、コンロの火を消した。
「澄! あんた、やけどしてない?」
「あー。うん。びっくりした。」
「びっくりしたのはこっちよ。ほんとにもう」
 翠ちゃんはふくふくと笑って、あたしを見た。いつもの翠ちゃんと同じ顔に見える。
 だけど。
 ちょっと違う。
 翠ちゃんの顔からは、何かが抜け落ちていた。
 
 たぶん翠ちゃんは、余計な花を振るい落としたんだと思う。
 だから何年かしたら極上のワインになるんだろう。すごくいい絵を描くようになるんだろう。だって翠ちゃんは、ここからものすごい練習をするはずだから。

「あたしも、ただのぶどうには、なりたくないな」
 え、と翠ちゃんがこっちを見た。あたしは笑った。
 今から、極上の翠ちゃんが描く絵が楽しみでたまらない。


【了】


今回のぶどうの「花ぶるい」に関しては、ヒスイも色々と調べました。が。
間違いがあれば、直します。コメント欄にご記入ください。
最後まで、ありがとうございます💛



#NN師匠の企画
#ヒスイの鍛錬100本ノック
#お題はワイン

100本ノック 今後のお題:
三階建て←俳句←言葉←舌先三寸←真昼の決闘夕日←春告げ鳥←ポーカー←課題←タイムスリップ←蜘蛛←中立←バッハ←お風呂←メタバース←アニメ←科学←鳥獣戯画←枯れ木←鬼←ゴーヤ

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ヒスイ~強運女子・小粋でポップな恋愛小説家
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