「ちょっとした、すれ違い」恋愛・超短編小説
「その香り、おれのだよな」
半年ぶりに会った男は、鼻をそらせてそういった。金色がかった瞳は、男ざかりの傲慢さにあふれている。
彼はつやつやとしたヒゲにちょっと手をやった。あいかわらずキザな身振りだ、と彩乃はふわりと爪を揺らして思った。
「”おれの香り”? 香りに所有格があるとは思わなかったけど」
「あるんだよ。そいつはおれの香りだ」
「そうだったかしら」
彩乃がとぼけると男はニヤリとした。
「忘れたふり、女はそれがうまいよな」
「別れた女が、まだ自分を覚えていると思う。そのうぬぼれ、男はうまいわよね」
彩乃がそういうと、男はますます気取ったしぐさでヒゲをなでた。彩乃は遠くを眺めて思う。
なくした恋は、初めからなかったようなもの。
女はそう思える。男はどうだか知らないが。
彩乃は退屈しのぎに、爪をトントンとさせた。それを見て、男はますますニヤリとする。
「おれを警戒している?」
「警戒するほどの牙を、持っている男には見えないけど」
「持っているだろ。お前のカラダは覚えているはずだ」
はあ、と彩乃はため息をつく。
「カラダの記憶ってね、案外すぐに消えちゃうものよ」
「お前はうそが下手だ、昔から」
「そう思っていたのはあなただけ。昔から」
彩乃はゆったりと目を閉じる。どこかから車のクラクションが聞こえる。金曜日の夜、人が大勢出てくる時間帯だ。
帰りは人のあまり来ない道を選ぼう、と彩乃は思った。それから退屈しのぎに尋ねる。
「あの若い女の子、どうしたのよ」
「どの女かな。お前と別れてから半年たっている。あいだにいた女は、一人じゃないよ」
男がうそぶく。彩乃はめんどうになって自分の爪に視線を集中させた。
男はなおも話しかける。
「その爪の長さ、今の男の趣味だな。昔は長くのばしていたのに」
「ご主人様の好みなの。女はね、恋をしているあいだだけ、男の好みに合わせるものなの」
「俺は長い爪が好きだけどな」
「もうほかの男の趣味に合わせるのはやめたの。ご主人様一筋なの」
彩乃は立ち上がった。
「昔話はもうたくさん。帰るわ」
「もうちょっと付き合えよ。ワンベッド、ワンセット。おれのテクニック、悪くなかっただろ」
「そのかわり、愛情は全くなかったわね。女の体はね、愛情で開くようになっているの。テクニックじゃあ、最初の2ミリくらいしか進めないわよ」
「2ミリあれば、十分だろ。首筋を後ろからかみつけば、お前は動けなくなる」
「おあいにくさま。乗っけたくないオスは、乗っけないことにしているの」
そういうと彩乃はひらりと立ち上がった。
ほっそりとした首には赤い首輪が付いている。ちりん、と鈴が鳴った。
その音を聞いて、男は露骨に顔をしかめた。
「ちっ。カラダと一緒に、プライドまで売りやがったか」
「野良猫にはもう飽きたの。男も、自分も。飼い猫の生活も悪くないわよ」
彩乃はにこりとした。
「あなたは、あいかわらず飼ってくれる女もいないのね」
「俺は自由を愛しているんだ」
「あたしは安定をえらんだの。最初から、道がちがったわね。さようなら」
彩乃はそう言うと、ぴくぴくと真っ黒なヒゲをふるわせてみせた。濡れ濡れとした鼻先は、全身の毛並みと同じく真っ黒だ。そしてピンとしっぽを立てて、家路についた。
帰る家がある。帰る場所がある。
だからこそネコは、安心して恋をするのだ。
野良猫なんて、もういらない。
あたしには、優しいご主人様がいるんだから。
「あら、あやちゃん。どこに行っていたの? もうご飯の時間よ」
「なゆううん♡」
ーーーーー了ーーーーー
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