女が全財産をつぎ込んででも「”男”にしたい、男」。鉄板ダメンズだけど(笑)
8月8日(パパの日)にROM専になって外部のブログに移籍する宣言をした、「
(旧)寝た子を起こし太郎」さんの企画があったことを
おひたち兄の記事で知りました。
なんだか、締め切り日がよくわからないんですが、
まあ、NETAKOTAROさんは、そういうことに厳しくなさそうな気がするので
(知らんですけど(笑)) 気にしないで、今日書こうと思います。
ヒスイのアイドルは画家「田中一村(たなかいっそん)」です。
最近、著作権のある絵は、アマゾンの表紙で紹介すればいい、という
裏技を編み出したヒスイです(笑)
田中一村は
「明治41(1908)年、栃木県に生まれる。幼少の頃から画才を発揮し、若くして南画家として知られる。
18歳、東京美術学校に入学するが2ケ月で中退。以後、中央画壇と一線を画し、50歳を過ぎて独り奄美へ移住。
紬工場で染色工として働きながら絵を描き続けた。
奄美の地で亜熱帯の鳥や自然を描き日本画の新境地を開いたが、作品を発表することなく69歳の生涯を終えた。」
(奄美大島にある、田中一村記念美術館のサイトから、丸ごと借りました(笑))
ちなみに文中にある「東京美術学校」というのは、今の東京藝術大学のことでして。同期には、日本画家の東山魁夷(ひがしやまかいい)が、います。
そんな名門学校に18歳で入り、しかも2カ月で辞めちゃうという。
最初から、才能バリバリだけど、あきらかにヤバそーな男が、田中一村です。
その後はひたすら自分で描き、理解者であった姉や協力者などに生活を助けられ(っていうか、ほぼヒモ状態)、
姉の死などを経て、50歳で奄美大島へ。
おそろしいのは。
現在、田中一村の傑作といわれている絵のほとんどが 59歳からの3年間に奄美で描かれた、ということです。
千葉の家を売り、もはや背水の陣で奄美大島に向かい、59歳までは紬工場で働いて生活費および画材代を準備。
59歳から3年間は、ただもうひたすらに、描いて描いて、描きまくったのです。
その後は62歳からまた紬(つむぎ)工場で働き、64歳で辞めてふたたび絵に専念。
しかしこのころはもう体がガタガタになっていたらしく
69歳で、奄美大島にて亡くなります。
この、すさまじい上下ロケット運動。
ジェットコースター的人生。
田中一村の一生は、およそ、59歳からの3年間にすべて集約されているのです。
代表作の「初夏の海に赤翡翠」(アカショウビン)」
最後まで、一村が手放さなかった傑作「アダンの海辺」
こういう人生は、決して楽ではない。
けれども。
こういう人生に、ちょびっとでも憧れを感じないヒトはいないんじゃないかなー、っていう気がします。
59年をあがきにあがき、己を攻め立て続けて、
それでようやく、描き出せたもの。
無駄に見える59年は、すべて3年間のためにあった。
それで一村が満足したかどうかは、わからないけれども。
神童と言われ、東京藝大に入り、
とっとと2カ月で辞め、板金工で暮らす。
中央画壇とうまく付き合えず、
賞らしい賞は、青龍社の第2回展に入賞した程度。
生涯、一度の個展もせず、
「アダンの海辺」を手元に置いて死んだ男は
やはり、みずからに満足して死んでいったと。
ヒスイはそう、思いたいです。
ヒスイだけじゃない。
賞に恵まれず、はやりの激流にうまく乗れず、
絶望で胃袋を膨らませて
逆流性食道炎になりかけている誰もが
田中一村のごとく
いつか、自分を満足させるものを世に出したい、と
歯嚙みしながら、夜明けを待っている。
クリエイターだけじゃない
自分のやっている仕事に、迷いと失望を感じながらも
毎日の通勤電車に乗っている。
すべてのひとも。
いつか自分と世界を、ほんの2センチでいいから近づけたい、
融合させたいと
願っているんじゃないか。
そう、
思うのです。
というわけで、「(旧)寝た子を起こし太郎」さん。
画家、田中一村が
ヒスイのアイドルです。
ええ男だっせ、おくさん(笑)。
鉄板ダメンズですけど、近くにいたら
全財産をつぎ込んででも、
女が、「男にしたい、男」です。
あっ。
昨日と今日の、「早起き鳥、しっぷちゃん企画・ドラマティックな31日」
ヒスイの起床時間を書いておきますね。
8/15 9:20
8/16 8:10
波はありますが
自分でコントロールしている時間だから、
問題ないんだ(笑)!!