『死ぬまでに、あと何本のダッシュを』ヒスイの鍛錬・100本ノック㉒
ととんっ、と軽い音を立てて自販機から缶コーヒーが出てきた。
高野翠は手袋をした手で缶を取り、顔を上げた。大きなクスノキの枝から一月の終わりの青い空がのぞいていた。
公園に入るとベンチ座る男ふたりが見えた。翠の親友のケロと直樹だ。
背後から近づくと、ケロの声が聞こえる。
「だからさ、この世に女は山ほどいるわけ。俺がいい子を紹介するよ」
「いらない。彼女は戻ってくるから」
「今回は無理だって。ラインもインスタもツイッターも、ぜんぶ切られてるんだろ。次に行こう、次に」
「帰ってくる。これまでだって、何度も戻ってきたんだから」
翠は顔をしかめた。二人の話は平行線だ。どうして男というのは、正論だけで話そうとするのだろう。恋愛において正論というのは、空っぽの乾電池くらい役に立たないのに。
翠はベンチの後ろからケロと直樹のあいだに手を突っ込み、缶コーヒーを渡した。
「今日だけは忘れなさいよ。いいお天気だし。人間、日に当たっていれば元気になれるらしいし」
「干物かよ。俺、そこのコースを走ってくるわ。100mダッシュだ」
ケロはそう言うと、ぽいと腕時計を翠に投げてきた。
「タイム計れよ、翠」
「はいはい――スタート!」
翠の声に合わせてケロは走りはじめた。百八十センチを超える巨体のわりに、ケロの足は速い。たちまちゴールについて、翠たちに手を振った。
「あいつ、あほだな」
直樹は冬日のベンチに座ってそう言った。翠が答える。
「あほだけど速いよ。14秒台の前半、がんばれば13秒台に行けるかも」
ケロのダッシュが3往復目にかかった時、翠は直樹の膝を蹴とばした。
「いつまでそんな顔してんのよ。いい加減にしなさいよ」
直樹は目を開けて翠を見た。それなりに整っている顔は毛穴が開き、薄くひげまで生えている。むさくるしい。
「お前だって、最近男と別れたんだろう。どうして女はそう、ムダに元気なんだ」
「あたしにはね、やることがいっぱいあるの。あんたみたいに日向ぽっこしては、彼女を思い出して泣く爺さんじゃないのよ――ほら、タイム計って!」
翠は預かっていた時計を直樹に投げた。そして走り出す。
息が上がる。肺が痛い。もう五年も走っていない。からだじゅうが悲鳴を上げる。翠だって、止まりたいと思う。
直樹には威勢よくタンカを切ったが、翠の現実は八方ふさがりだ。元カレはグズグズ言ってくるし、こなせるかどうかわからない大きな仕事が舞い込んできている。不安だらけだ。
それでも、と翠は思う。
走っていれば、先に行ける。スタートしてリセットして、スタートしてコンマ一秒が消えてゆく。結局、死ぬまでにどれだけの数のダッシュをしたかが、だいじなんじゃないだろうか。
その時、背後から大きな影が伸びてきた。直樹だ。
翠は直樹のせわしない息を聞く。負けたくない。不安にも直樹にも負けたくない。翠は全身をばねのようにして、直樹を振りきろうとする。
100mコースのゴールにはケロがいる。
ゴールには、先に翠が飛びこんだ。
「……いってえ……体中が、もう痛い……」
二時間後、翠の部屋には芋虫のように転がるケロと直樹がいた。翠はコーヒーのマグをテーブルに置いて笑った。
「あほじゃないの? 結局、何本はしったのよ?」
「俺、二十本かな」
「俺もそれくらい……明日、動けるかな。営業の仕事なのにな」
「でもスッキリしたでしょ?」
翠が言うと、直樹はむっくりと起き上がった。
「スッキリした。俺、これからカノジョん家にいってくる」
直樹が部屋を出ていく。ケロが床に転がったまま、つぶやいた。
「あいつの彼女、旦那さんの転勤で長崎に行くんだってよ。もう、どうにもならないよ」
「……そだね。しばらくは週末ごとに公園で100本ダッシュと日向ぽっこしようか」
「タイム、13秒台に縮めるか」
最近、高野翠の週末は忙しい。100mダッシュを繰り返し、友人と日向ぽっこをして過ごすからだ。
翠のタイムは16秒になった。
ケロのタイムは13秒後半。
直樹はひとりで長距離走をはじめた。走っているあいだじゅう、長崎にいる彼女について、考えているらしい。
一足ごとに、愛していると息を吐いているんだという。
それで、いいらしい。
【了】
#NN師匠の企画
#ヒスイの鍛錬100本ノック
#お題は 日向ぽっこ
100本ノック 今後のお題:
バッハ←お風呂←メタバース←アニメ←科学←鳥獣戯画←枯れ木←愛←鬼←ゴーヤ←ワイン
このお話の中の「直樹」は、ヒスイの親友Nがモチーフです。