「なにかを書く時、ひとは”ひとり”」それ、ホントか? ヒスイのささやかな考証。
今日は、「書いているとき、人は本当にひとりか?」ってことです。
ご承知のように、ヒスイ、
6月末までのコンテストに出すものを
1行も書けずに
毎日毎日、ころがって、
明治エッセルスーパーカップをたべています。
この3日間、やったことと言えば
納期の仕事と
ミシンと
スーパーカップだけ(笑)。
とはいえ、もう指先まで
書き出せない物語で
みっちみち、なんですけど(笑)。
で、
そのコンテストの、過去作などを見ているうちに
こんな文章に
ぶつかりました。
「なにかを書く時や読む時には、ひとは「ひとり」です。
おのれと、テクスト(文章)と、一対一で、向き合わなくてはなりません。」
ふむ。なるほど。
わかる。
文章の、後半は、わかる。
だれも直してくれないしね(笑)
校閲や誤字はソフトがやってくれるけど
文章のおかしいところは
自分で治すしかないしね。
だけど。
ヒスイが何かを書くときは
ぜったいに「ひとり」じゃないです。
書いている先には
必ず
「想定している読み手」がいます。
読み手を想定しないで書くひとっているのかなあって
シンプルに疑問に思いました。
<゜)))彡 <゜)))彡 <゜)))彡
たとえば、先日書いた
「星×悲しみの重量=銀河・ウルシ」
これは、この世のパパすべてに向かって
書きました。
というのも、
少し前に、久しぶりに父と話すことがあって、
そのときに
なんだか、じわんと
「父・愛」みたいなものを
感じたからです。
ダイレクトに何か言われたわけじゃないけど、
数万光年のかなたから
数万光年をかけて届いた星の光、みたいなものを感じて。
それを伝えたくて、書きました。
「世のお父さんへ。子どもは意外と、あなたの愛情を受け取ってますよ!」
ってことが
言いたかったんですね。
大人になると
娘と父親って
それほど密接な関係じゃなくなるけど
距離があるからこそ
感じる愛情もあるんだなって。
書いてみて、やっとわかりました。
と、こんなふうに。
ヒスイは、誰かに言いたいこと、伝えたいことがあるから、
物語を、書いています。
これ、やっぱり絵じゃ、伝わりにくい(笑)。
パパの顔を書いても、わからないと思う。力量不足ってのもあるけど(笑)
やはり、物語の形が
いちばん、しっくりくると思います。
そう言う意味においては、
ヒスイは絶対に
一人で書いていません。
PCの先に、
肩の後ろに、
その物語を読んでくれる人が、います。
たとえば、かいた文章を直すときなどは
一人だ、とは思うんですが。
いや。
ちがうな(笑)。
ヒスイの場合、
書いたものは、真っ先に
同居人・ケロリンに読んでもらいます。
それは、
誤字脱字、読みづらい部分、伝わりづらい部分を見つけるには、
第三者の目が一番すぐれているから、ですし
それ以上に
ケロは、好き・きらいがはっきりしてて
それをフツーに言えるからです。
ヒスイをおもんぱかって
あんまりおもしろくない、ってときでも
「いいと思う」などとは
言わない。
「前のアレのほうが、おもしろかった」とはっきり言いますし、
いい時は
「これ、売れるぞ」という(笑)。
(すいません、ケロもクリエイター系なので
すべての評価は
ウケる・ウケない 売れる・売れないが価値基準なのです(笑))
これは、大きい。
自分の書いたものの評価って
自分では客観的にできないし、
専任の読み手、批評家を持っている時点で
ヒスイは非常に恵まれていると思います。
それでも。
べつに、ケロに向けて書いているわけじゃない。
毎回、その物語を届けたい読者を想定して書いています。
たとえば、
失恋してズタボロの女子に向けて、エールとして書くもの。
大事なひとを失った人に、わずかでも寄り添えるもの。
何も考えたくない人へ届けたい、アホアホしいストーリー。
誰かと、何かを共有したい時に、
物語は目の前に浮かんできます。
それを、追いかけて、書きとめるのがヒスイの仕事です。
だから。
書いているときは、一人じゃないです。
かならず、書いている物語の先に、未来の読み手がいます。
こういうひとに届けたい、と思うから
書いているんです。
その理由がなくなったら
書かなくなるだろうなと
思います。
まあ、作業的には『ひとり仕事』ではあるんですけど。
やっぱり、一人じゃないって思うから、
誰かとのつながりを現在進行形で感じるから
書けるんだと思います。
もちろん、こういうスタイルは、人それぞれで、
一人で孤独を突き詰めてこそ書ける、という人もいます。
個人のスタイルだから
それで いいんじゃないかな。
文中、引用はコチラから。
もう絶対に間に合わねー、と思いますが。
最後の瞬間まで
あきらめない(笑)!!
ヘッダーはUnsplashのNatalya Ukolovaが撮影