「完璧に直さないのに適した絵」ヒスイの毎週ショートショートnote 字余り
男は「天才・修復絵師」と呼ばれていた。
どんなひどい状態の絵でも、彼の手にかかれば完璧に美しい姿を取り戻すからだ。
男は自慢屋でもあった。
「みろよ、俺の直した絵を。まるで完成したばかり見たいだろう」
客も家族もうなずいた。やがて男は、自慢の沼に首までつかった。
『やつの腕は抜群に良い、だが人間としてはダメだ』
噂が立ち、仕事が来なくなった。
男は大酒を飲み、廃墟になった教会で酔いつぶれた。
そこへ娘がやってきた。
「おとうさん。この絵を直して。直すのは上手でしょ?」
娘の手には、破れた絵があった。彼女が描いた落書きだ。
「フン」
彼は鼻で笑って絵を取り、さらに破った。
娘は泣いた。泣きながら教会の扉を開けた。
「おとうさんのばか!」
そう言って駆け出した瞬間。空が裂け、紅蓮の炎が娘をおおった。
酔った男がよろよろと扉に近づくと、外では爆弾が雨のように降っていた。
その日から、戦争が始まった。
世界でも、彼のなかでも。
村は戦場になった。家は焼け、人々は倒れた。
男は教会にかくれ、軍隊がやってきて去るのを見た。
あとには、何も残らなかった。
あの一枚の絵以外は。
彼が裂き、娘が泣いたあの絵だけがあった。
残ったものは、破れた絵と、天才修復師だけ。
その年、夏は早くやってきた。
涙は流す間もなく干上がった。
ある日、男はふと絵を取り出した。
破れた絵を何度も何度も撫でる。底に娘がいるような気がした。
薄く弱い紙を何度も撫で続けたので、表面が毛羽立ち、線もかすんで、色もにじんだ。
男はぼうぜんと、
「なぜひとは、生まれてくるんだ」
手の中で、弱った絵がぐたりとした。
紅蓮に包まれた娘の、動かない首筋のようだった。
男はうなだれた。
「なにもない。俺にはもう何もない」
そのとき、とつぜん風が立ち、男の手から絵を奪った。
ボロボロの絵はひらりと舞い上がると、焼け残りの屋根に引っかかった。
男はあわてて壁を登ろうとしたが、ぼろりぼろりとレンガでさえ崩れていく。
男は必死によじ登り、傷だらけになって屋根にたどり着いた。
弱った絵は屋根のはしで、あやうく揺れている。
あれを取りに行ったら、と男は思った。
俺はきっと、もろい屋根を踏み抜いて落ちるだろう。落ちて石床にたたきつけられて、けっきょく死ぬんだろう。
では、あの絵にそれだけの価値はあるのか。
俺の、かろうじて残った命をかけるほどの意味は、あるのか。
日は照りつけ、屋根にしがみついている男は、めまいがしてきた。
指先から力が抜ける。
もういいんだ、と思った。
もういいんだ。俺が生きている意味なんて、どこにもない。
家族も仲間も失い、最後に残った娘の絵すら、炎天下に焼けこげそうだ。
死んでしまえ。その方が楽になるから。
男はゆっくりと指から力を抜いた。
いっぽんいっぽん、力を抜いた。
死ぬんだ、と思った。
これでやっと、死ぬんだと。
そのとき、ふわりと絵が風に浮かんだ。
屋根の先から浮かび上がり、ゆるやかに渦を巻くように地面へ落ちていった。
それはまるで、生まれたばかりの娘の、やわらかな巻き毛のようだった。
男は目を見ひらいた。
「ひとに、生まれてきた役割があるのなら、俺の役割は『絵を直すこと』だ」
画材も修復素材も何もない。戦争がすべてを持って行ってしまった。
だが、修復師には、絵があった。
彼の全財産である一枚の絵が。
慎重に屋根から降りると、修復師は地面に落ちた娘の絵を拾い上げ、見つめた。
破れをどう直すか。
かすんだ線をどう取り戻すか。
色をよみがえらせる方法は。
修復師は大事な絵を教会に置くと、焼け焦げた村をあさり、紙を見つけ出し、灰を手に入れ、クレヨンと絵の具と筆を手に入れた。
生活の名残と、愛情の痕跡を手に入れた。
生き残った者の使命を、手に入れた。
夏が続く。
油照りの夏がつづく。
修復師は人間離れした集中力で、絵を直しつづけた。
汚れた紙を灰で洗い、
紙の破れをふさぎ、
かすんだ線を描き、
にじんだ色を再び入れた。
ゆっくりゆっくりと、絵がよみがえっていく。
いちまいの絵が、命を呼び戻す。
夏の月が膨らみ、やせ細り、日々が過ぎた。
ある夜、修復師は一枚の絵をながめていた。
静かに微笑んだ。
「やあ、ひさしぶり。とうさんだよ」
真珠色の月光のもと、修復された絵は、静かにきらりと輝いた。
『もっと上手に描いてあったよ、おとうさん』
「はは、完璧に直さないほうがいい絵もあるんだ。
明日からもまた、直せるからな」
『へんなの、おとうさんてば』
虫の音が聞こえた。
なつは、おわったらしい。
【了】(約1700字)
本日は、たらはかにさんの #毎週ショートショートnote に字余りで参加しています。
お題は「ひと夏の人間離れ」
相方ヘイちゃんは、なんとコロナに!
お大事にしてね。