短歌は決して日記ではない

Twitterでこのツイートがなぜかプチバズっているので、noteで改めて補説をし、まとめておこうと思います。
https://twitter.com/sirokumapoyonpo/status/1489072210794844161

現代短歌は、短歌という形式をとった日記、近況報告になっているものが多い。そして、面白い詠み手、うまい詠み手ほど、そうなっていない割合が多いのではないか、と思います。

別に日常詠とか具体的な描写をすべて否定しているわけではなくて、連作が物語性を持っていたり、切り取り方や表現、構成が工夫されていたりすれば、それは面白いなと思います。以下はその例です。
河野裕子「灯の下に消しゴムのかすを集めつつ冬の雷短きを聞く」
藤島秀憲「プール帰りの小学生が駆け抜けて父とわたしの影残される」
西村曜「『一ポンデあげる』ときみがちぎってるポン・デ・リングのたまの一つぶ」
鍋島恵子「半分にきれば新たな重心を得て静止するキウイフルーツ」

短歌は五七五七七という、明らかに「不自然」な定型を持っています。日常生活の中でずらずら喋っていたら五七五七七になっちゃった、なんていうことはまず起こりません。ここから、短歌の世界は、「人工」的な「非日常的世界」であると言えるのではないか。岡井隆は『韻と律』の中で、こんな主張をしました(だから、短歌の中に非日常言語である文語が使われていても構わないし、歌人は文語の使用に執着してきたのだ、と岡井は指摘します)。
この岡井の主張を援用するなら、やはり日常詠にも何かしらの「非日常性」が含まれて然るべきだ、と言えるでしょう。
まあ、柄谷行人『日本近代文学の起源』的に言えば、日常詠だったとしても、詠まれていることが「新たに発見された風景」であれば良いわけです。簡単にいえば、今まで短歌や日常詠という額縁に入れられてこなかったものが作品に入っていれば、それはそれで面白い作品にはなります(例・俵万智の「缶チューハイ」)。

しかし、日記短歌の場合、川沿いを歩いてようが、何か食べていようが、恋愛や子育てをしていようが、「ハアそうですか」という感想しか出てきません。
例えば「コロナウイルス」という単語が短歌に入っているだけでゲンナリするのは、「日記を五七五七七に押し込めただけ」という印象しか残らないからです。
だって、「俺昨日の昼にカレー食べたんだぜ」、みたいなこと言われたって、正直どうでもいいじゃないですか。しかも短歌で。
でもこういう短歌って、結構多いんじゃないかと思います。

《日記短歌=短歌》だと思っている人は、斉藤斎藤や瀬戸夏子のやっていること、やろうとしていること(短歌の私性の崩し)が、もう全然わからないんじゃないか、と思います。
純文学の世界では、滝口悠生、鴻池留衣など、信頼できない語り手なんてバンバン出てきているわけです。でも短歌の世界では、そこがなかなか崩れない。大御所からは「意味不明」「わかりづらい」、という評価でバッサリ切り捨てられてしまう。
例えば笹井宏之にしても、身体活動の制限によって日記短歌がたくさん作れないというところから彼の芸術短歌がスタートするわけで、それが日記短歌として解釈される必要は全くないのではないでしょうか。

その点、一番タチが悪いのは、文語でカムフラージュされた日記短歌だと思います。「昼餉にカレー食ひにけり」みたいな作品です。
よくあるのが、芸術短歌を評価された歌人が、雑誌では日記短歌を詠むということ。大御所・若手にかかわらず。芸術短歌で新人賞を受賞したのに、その後の作品が日記短歌になっていたりすることがよくありますね。
たぶん、「短歌作品を見てほしい」のか、「短歌作品を通して私を見てほしい」のか、という作り手側の意識がにじみ出ているような気もします。

正直、「芸術短歌」「日記短歌」みたいに、「短歌」の中でジャンルを分けてもいいんじゃないのかな、と感じるくらいです。
それくらい、「短歌」という言葉の示す範囲は広すぎるんじゃないのかな、と思います。