感想 永井祐『日本の中でたのしく暮らす』
永井祐『日本の中でたのしく暮らす』を読みました。印象に残った歌を、いくつか引用します。
一見誰でも簡単に作れそうに見えて、実はよく技巧的に作り込まれている。そんな感想を抱きました。
例えば「マンションのひさしで雨をよけながらメールを書いている男の子」という歌は、並の歌人なら「メールを打っている男の子」とするはずです。
よく読み込んでみると、こういう仕掛けに気付くんじゃないかと思います。
短歌世界としては、主体の身体性も感情も感じられないし、世界のすべてが他人事っぽいような印象を受けます。
その点、『ノルウェイの森』のワタナベっぽいな、と思いました。
セカイ系が「きみとぼく/(社会領域の省略)/世界」ならば、この歌集は「無関心なぼく/(社会領域の省略)/世界」という構造でしょうか。
この淡々とした感じを、(感動⇔共感主義的な)短歌というメディアを使って表現したところが、斬新だと思います。
たとえば、葬式の帰りを詠むとして、
A 葬式の帰りにコンビニで肉まん買って食べた
B 葬式の後電気を消しても寝付けない
この二つの短歌世界があるとします。
Aがリアルだと思う人もいれば、Bがリアルだと思う人もいるはずです。
たぶん、永井祐だったらAみたいな歌を詠むんだろうと思います。
今までの短歌世界はBに偏り過ぎていたのでしょう。
永井祐を批判する人の言いたいこともよくわかります。要は「スカしてんじゃないよ!」ということでしょう。
でもその批判は、永井祐の作品がもたらしたもの、炙り出したものだとも思います。
ただ、それでもあえてツッコミを入れるとすれば、「本当に大切な人が亡くなった後、人はAみたいな歌を詠むのだろうか?」という点は気になります。
どうも痛みが欠落しているような印象を受けてしまうのです。
現在、私は鷲田清一『死なないでいること』を並行して読んでいるんですが、《他者との関係性の中で痛みとして経験される死》に対して、永井祐の短歌は目をそらしているような印象を受けます。
でもそれは永井祐の短歌だけの問題ではありません。
出産や食事などの営みと同時に、死を家庭や生活からできるだけ遠ざけて、病院に押し込めてしまった、近代社会の問題です。
だからこそ、《葬式の帰りにコンビニで肉まん買って食べた》みたいな歌がリアルだと感じられる人もいるんじゃないのかな、と。
第二歌集も、そのあたりを意識して読んでみたいなと思います。