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人生の選択肢としての自殺

やけに明るい奴ほど危ない

大学生の時に、哲学の教授が言っていた。

「やけに明るい奴ほど危ない。一人で闇を抱えていて、急にあっさり自殺する。」

この言葉を聞いた2年後くらいに同じ学部の友人が自殺した。

やけに明るい子だった。

表面上の付き合いと闇

友達づてにその子が自殺したと聞いて、驚いたけど悲しい気持ちにはならなかった。

そういう人だったんだな、と思った。

その子とは、大学入学から2年生くらいまでは同じ授業を一緒に受けたり、時々一緒にお昼を食べたりしたことがあったけど、そこまで親密だったわけではない。表面上の付き合いってやつだった。

彼女が自殺した大学4年のときには、共通の授業はなくて関わりもほぼなくなっていた。

同じ授業を受けていた頃も、その子は出席だけすればいい授業には遅刻してくることがしょっちゅうで、あんまり好ましい印象は受けていなかったけど、まぁ表面上仲良くする分には害はない存在だった。

周りに、表面しか出していないと、表面上の付き合いにしかならない。闇を一人で抱え込んでしまう。

ひとたび表に出してみれば、他の人も似たようなことで悩んでいることに気づくかもしれないのに。

もしくは、周りの人はそんな深いところまで考えていないことに気づいて、優越感を感じられるかもしれないのに。

心の闇を小出しに

心の闇とか病んでる感を小出しにしている私のような輩はだいたい死なない。

私の場合、自分の周りの9割くらいの人間は、自分が悩んでいるようなことや考えているようなことを、今まで考えたことも気づいたこともないような感じであることがわかって、そのことに少しの優越感を抱いたおかげで生き延びてきたパターンだ。

物事の本質を疑ってみることもせずに、表面的な悩みを抱えて苦しんで、そういう人たちが結局はそれなりに楽しく生き延びて、私が死ぬなんてばかばかしい。そう思った。

こういう自分が嫌いでもあり、好きでもある。

自殺することについて考えたことは何度もある。誰か自分を殺してくれないかな、と思ったことも何度もある。

周りの友人にも、そういうことを考えたことがある人は何人かいたし、ほとんどの人が一度は考えたことがあるのだろう。

生まれてきたくて生まれてきたわけじゃない

誰しも、生まれてきたくて生まれてきたわけじゃない。

私は今まで生まれてきて良かったと思ったことは一度もないし、自分を産み育てたことに関して親に感謝したことは一度もない。

楽しいことがある分だけ辛いことがあり、嬉しいことがある分だけ悲しいことがある。

記憶力が良いので辛かったことや悲しかったことや憎むべきことは鮮明に覚えている。

結局人生プラスマイナスゼロなら、こんな面倒くさい生なんかいらなかったし、生まれてこないで無でありたかった。

だからといって、自殺するのは痛かったり苦しかったりするのだろうし、生まれて生きながらえてしまったがゆえに、今では私が死ぬと悲しむであろう私の大切な人たちができてしまったので自殺はしない。

けれども、自分と極端に近い関係である人を除いて、自分以外の人が自殺することに関してとやかく言う気はない。

自殺の理由は本人以外の誰にも分からない

辛いことがあったのかもしれないし、何かに耐え切れなくなったのかもしれないし、元々生まれてきたくて生まれてきたわけじゃないからもういいやと思ったのかもしれない。

自殺の理由は本人以外の誰にも分からない。

ただ、自分が自殺したら周りの人が悲しむであろうということを振り払ってまで、自分の苦しみとか考えのために自殺する奴のことを良くは思わない。

自分だけにしかわからない苦しみを誰もが抱えている中で、自分の苦しみを周りの人に訴えたり、助けを求めることもせず、自分の中だけで抱え込んで勝手に死んでいく奴らのことを、傲慢だとも思う。

それと同時に、その人の自殺の理由が皆目見当もつかない、ちょっとその人のことを知っているくらいの人たちが、ただ、その人が自殺したという事実だけで、その人の死を悲しむことにも違和感を覚える。

そもそも自殺することは良くないことなのか?

自殺は良くないことなのか?悲しまれるべきことなのか?人生の選択肢として選んではいけないことなのか?

色々な人生の選択肢を検討した上で、それでも自殺という選択肢を選んだのなら、その人が選択したことを認めて尊重するということも、あってもいいのではないだろうか?

ガーナでは、人が亡くなると祝福のダンスを踊るらしい。

ガーナでは人間は死んだ後、また新たな人生が始まると信じられており、「死」は「新たな始まり」と捉えられます。
つまり、ガーナにとって葬式とは、故人の死は悲しむ為のものではなく、新たな人生を得た故人をみんなで祝福するための儀式なんです。

今の人生を終わりにして、新しい人生を始めるために自殺する。あるいは、今の生を完結させるために、寿命や不可抗力による死を待たずに自分のタイミングで死ぬ。

そういう考え方、死生観があってもいいのではないか。

人生の選択肢としての自殺

自殺した人たちのなかの一部の人たちは、生きるのが辛いから、とか、人生に希望が持てないから、とか、そういう理由じゃなく、人の死を悲しむ一般的な感覚の人とは別の次元で死を捉えて、自殺が悪いことであるという社会的に一般的に認められている考えを超越した死生観に至り、人生の選択肢として自殺を選んだのだと、その死は悲しいことではないのだと、そう思いたい。

けれども、そう思うことも、ただのお節介なのだろう。

ある人が自殺した。そして、自殺の理由は本人以外の誰にも分からない。

その事実が、ただあるだけ。


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姫翠(hisui)
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