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何かを批判しようとしている人たちへ

ここ数日、オリンピック関連のニュースはほとんどがネガティブなもので埋め尽くされている。
開会式を担当する作曲家の、過去の発言に対するバッシングはその代表例だ。
おそらく明日のお昼頃には、開会式・閉会式のショーディレクターを務める人物の、過去のコントの内容がクローズアップされて、マスコミやSNS上で面白おかしく書き立てられていることだろう。次から次に批判が舞い起きる。


インターネットの発達により、「発言」や「創作物」などが半永久的に残る時代を私たちは生きている。
オリンピックに向けられた「批判という名の色眼鏡」は、コロナウイルス感染拡大の中で生じたストレスを解消するためのスケープゴート化によるものというのは間違いない。

だが、問題はそこにとどまらない。
過去の発言を蒸し返し、特定の人物を攻撃し、完膚なきまでに叩き潰すその行為。そしてそれを許容し、求めている社会。
おそらくだけど、その社会が構築されたら、これより先、確実に私たち日本人の首を絞めることになることになるだろうと思う。
そのことに、批判の当事者たちは気づいているだろうか。

決して私は、発言の責任に時効があるなどとは思っていない。
いじめ自慢なんて人間のやることでは無いし、ホロコーストを小馬鹿にした創作物を世に出すことなど愚の骨頂だ。
けれど、過去の失敗を見つけ、嬉々としてその人を叩こうとしているあなた自身もまた、「発言には時効がない」という風潮に支配されそうな令和の世を生きているという自覚があるのだろうか。
私は、批判をしようとしている「あなた」にそれを聞きたい。


要するに、あなたの行動もまた、同じように世間から監視され、何かあった時に完膚なきまでに叩き潰されてしまうのではないか、ということだ。

完全無欠なる正義の者など、この世には存在しない。
何かを否定しようとしているあなただって、そんなに綺麗な人生は送ってないでしょ?悪口は言うし、誰かを恨んだことはあるだろうし、殺したいほど憎む相手だっていたことはあるでしょ?子供の頃に、いじめの加担者になったりしたことはない?特定の国に向けられた悪意の波に乗っちゃって、批判の急先鋒に立った人だっているでしょ?何かを壊したりしたこと、誰かを傷つけたこと。嘘をついたこと。泣いている誰かにらそっぽを向いたこと。いじめられたことだって、いじめたことだってあったかもしれないよね。
だってみんな同じ人間だもの。そうしてみんな、成長してきたんでしょ???


結局みんな、同じ穴の狢なんです。類友なんです。闇雲に人を攻撃する価値すら持っていない。石を投げる資格なんてないんです。だって、同じように何かを傷つけて育ってきたちっぽけな存在なんだから。私を含めて。


何度だって言うけれど、批判という行為の存在理由である、「暴走しそうな主義や主張、思考を、冷静かつ客観的に止める」ものを否定しているわけじゃない。
でも、そんな冷静さを持っている人は大々的に、センセーショナルに、批判をしたりはしないんです。
世の中で目立っている、批判の当事者たちっていうのは、結局のところ、冷静さを失った人たちばかりで、一度批判し始めるとそれを止める術を失い、とことん相手を追い詰めて潰しちゃうマシーンと化してしまう。

もしかしたら、あなたのことを批判する存在がまた現れるかもしれない。でもその時に、あなたを助けてくれる人は誰もいないんです。そういう社会を、あなたたちが作ってしまったから。 


これから、何かを批判しようと思っている人に言いたいことがある。その批判、冷静な立場から行えていますか?もし、そうじゃないとしたら、その批判は、あなたを含めたすべての人間を、じわじわと蝕む社会作りに寄与してしまうかもしれませんよ、と。

本来の、健全な社会とは。
発言に対する責任は当然付き纏うけど、同じように、その発言をした後にその人がどんな道を進み、積み上げてきたのかを冷静に観察する余裕がある社会のことを指すと、私は思う。
決して褒められるとは言えない人生は「皆」送っている。だったら、成長したことを「皆」が認められる社会を作っていかないと。一人を攻撃して快感を得るプレイに勤しんでたら、「皆」足元を掬われてしまうよ。
一定の批判は必要だし、悪いことをした人が全員から許容される社会は不健全だけど、「批判し合う社会」からは何も生まれない。


失敗した後、誰からも助けられない社会。

あなたは暮らしたいですか?

俺は嫌だね。

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