理不尽を感じられる大人になってほしい
自主性が重んじられる時代。なんでも自分で選択して、自分なりの道を切り開くことを求められる時代。
そんな時代にあって、自分では選択できないもの。考えてみると意外に多い気がする。
例えば担任の先生。4月、学校側から一方的に決められた人事を伝えられるだけで、一年間の関係性が決まる。それが自分にとって合わなかったり、毛嫌いしている先生でもだ。
例えば花粉症。なりたくなくてもなる。鼻水でティッシュがなくなり、頭が重く、疲れやすい。花粉を飛ばす杉を全部伐採したくなる。全部木炭にしてあげたい。本気で。
例えば桜の散り様。散って欲しくなくても、風と共に空に舞い上がる。雨予報を察知すると、曇り空の如くなんとも言えない心模様になる。
自主性を重んじる時代にも、自分ではどうにもならないような理不尽はまだまだ多い。
「大人とは、理不尽に寛容になることだ」と誰かが言っていた気がする。
うっせえな、と思っていた私の20代はまもなく終わる。だけど、たしかに理不尽に対して寛容になってきたと感じることも少なくない。やはり、私たちは大人になるにつれ、寛容の精神を身につけるのか。
違う。これはまた違う感覚だ。決して寛容ではない。
だって、理不尽は29歳になっても嫌なものだから。でもそんな理不尽を、二度と経験したくない理不尽に対して、どこか「仕方ない」と感じて何も考えなくなる自分がいる。
ああ、なるほど。これは「寛容」ではない。大人は理不尽に「不感」なのだ。
理不尽に対する不感症。
花粉症になるのも仕方がない。
桜が散るのも仕方がない。
生活が苦しくたって仕方がない。体調が悪くなるのも、仕方がない。
こちらが何をしても直らないじゃないか。だったら、嫌だけど何も感じないように心を整えたほうが良い。
大人とは理不尽に不感で向き合う存在なのか。
そして、私自身そんな大人の仲間に入ろうとしていることに衝撃を受けてしまう。
昔はこうではなかったはずなのに。中学生や、高校生の頃は。
今の中高生も多くの理不尽と戦っている。
友人関係、親子関係、そしてわからない勉強。それらに敏感に反応して、涙が出たり体調面が悪化したりする。
見方を変えると、それは不感症である大人ではない証拠なのかもしれない。
理不尽は現代にはびこる敵である。
それらを打破しなければ、本来の意味での自主性を重んじる時代は一生訪れないだろう。
そんな世界を変えるのはおそらく、理不尽不感症である現役世代の大人ではなく、不安に苦しみ、理不尽に嫌悪感を抱く全ての人たちであろう。
だから気づいて欲しい。あなたは今、世の中を真正面から見据えることができているのだ。それってすっごいことなんだ。でも、その理不尽に慣れ切ってしまうと、そこからわずか10年で理不尽不感症を発症してしまう。
それはすごく楽だけど、けれど理不尽に敏感だった今を殺すことになってしまう。
だから、その気持ちを大切にして、新しい大人になってほしい。「理不尽を感じ取り、打破しようとする大人」に。理不尽を受け止めた上で、自分なりの選択を勝ち取れるたくましい大人に。
桜の散り際は変えられないけど、自分の未来は変えられる。理不尽に負けるな、みんな。そして、私。