
【イジンデン】イジン紹介 フェルディナンド・マゼラン
イジンデン紹介記事Part6です。
すっかり紹介し忘れていましたが、noteにイジンデン記事を書こうと思ったきっかけは自分でイジンデンパック開け&イジン解説動画をつくったことからでした。こちらの動画で全イジンの簡単な解説をしているので、興味がある方はぜひご覧ください。
今回紹介するのはフェルディナンド=マゼランです。

名前
最近の教科書では、「マゼラン」ではなく「マガリャンイス」と表記することが増えています。ぱっと見全然違う人に見えるので、違和感がある人も多いでしょう。
なぜ表記が変わったのか?ざっくり言うと、最近の教科書では現地の読み方にできるだけ即した表記にしましょう、という流れがあるからです。
では、なぜ2つ表記があるのでしょう?それは、英語表記と現地、つまりスペイン語表記が異なるからです。前にアレクサンドロス大王の記事でもお話ししましたが、人の名前は言語によって呼び方が変わります(アレクサンドロス大王の記事は以下のリンクから)。
マゼランも同じです。
マゼラン…英語での呼び方。フルネームで言うと「フェルディナンド・マゼラン(Ferdinand Magellan)」。本来の英語の発音だと「マゲラン」「マジェラン」の方が正確なのですが、日本語では「マゼラン」と言うことがほとんどです。このように、日本語と英語とでも発音の表記が変わることが多々あるのです。
マガリャンイス…彼が活躍したスペインでの表記。フルネームで言うと「フェルナン・デ・マガリャンイス(Fernão de Magalhães)」。スペイン語やポルトガル語ではこちらの表記が一般的です。
では、彼の名前はどのような意味を持つのでしょう?スペイン語表記の方で見ていきます。
フェルナン…西欧の男性名に使われる名前です。スペイン語圏やポルトガル語圏で使われている名前です。英語圏に行くと「フェルディナンド」になります。
元々はイタリア語圏の名前です。さらに辿るとゴート人の言葉が由来です。ちなみにゴート人とは、中世の始まりに起きたゲルマン人大移動の中の一部族です。ゲルマン人大移動については先日作成した動画をご覧ください!!(宣伝)
デ…英語で言う「of」です。ヴァスコ=ダ=ガマの「ダ」と同じです。彼もまた貴族の生まれであるため、ヴァスコ=ダ=ガマと同じくこの後に続く「マガリャンイス」は名字だと考えられます。
マガリャンイス…ポルトガルで使われる姓です。特別変わった姓ということでもないようです。
功績
やはり彼の功績と言えば初の世界一周でしょう。
彼はスペイン王カルロス1世の支援を受けて航海を行いました。なぜポルトガル人のマゼランがスペイン王の支援を受けたのかはまだ定説が出ていません。
ライバル国のポルトガルは東回り航路を開拓していました。前に記事にしたヴァスコ=ダ=ガマが有名です。それに対抗して、スペインは西回り航路を開拓しようとしていました。実際、コロンブスが既に西回りでアジア(実際はアメリカ大陸)にたどり着くことが判明していたこともあり、西回り航路を固めようとしていました。
かくして1519年、マゼランは仲間たちと共に航海へと出発しました。

南アメリカ東岸を南下したところ、大変背が高い原住民と出会いました。マゼランは彼らを「パタゴン」と呼びました。これが今の「パタゴニア」地名の由来になっているのです!「パタ(pata)」はスペイン語・ポルトガル語で「足」という意味ですが、「ゴン」が何を意味するかは未だ不明のようです。これからはアウトドアブランド「Patagonia」を見るたびにマゼランを思い浮かべることにします。
マゼラン一行は、南アメリカ南端に辿り着きます。ここで西の海へと抜ける海峡が発見されたのです。これが後に「マゼラン海峡」と呼ばれることになる海峡です。

マゼラン一行はさらに西へ進み、1521年にフィリピンへと辿り着きました。
セブ島に停泊し、王との交流も深めました。しかし、ここがマゼラン最期の地となってしまうのです……。
マゼラン一行はセブ島でキリスト教の布教を行いました。実際に洗礼を受けた人々もいましたが、さらに布教しようとしたマゼランは武力をちらつかせます。
ところがセブ島の対岸にあるマクタン島はマゼランたちの布教を拒みました。このときのマクタン島の首長がラプ=ラプ王でした。これに激怒したマゼランがマクタン島へ上陸し、ラプ=ラプ軍VSマゼラン軍の戦いが始まりました。結果、ラプ=ラプ軍はマゼラン軍を打ち破り、マゼランは道半ばにして亡くなってしまいます。
この歴史から、ラプ=ラプ王はフィリピンで略奪者から祖国を守った英雄として今もあがめられています。ヴァスコ=ダ=ガマなど同時代の航海者はみな、祖国では英雄ですが略奪された側の国・地域も当然あるのです。

こうしてリーダーであるマゼランを失った一行ですが、逃走しながらもなんとか世界一周を成し遂げました。1522年のことでした。生存者はたったの18人だったと言います。
先述の通り、この時代の航海者は視点によって英雄か略奪者かが一転します。これが歴史の面白いところであり、歴史を学ぶ意義だと思います。