柴田勝家の死に様

柴田修理亮勝家は、前田又左衛門利家の前へ足早に進み出ると、どかりと腰を下ろした。そして、畳に両拳を突き、深々と頭を下げた。

「年来の骨折り、誠に重畳。この修理亮、衷心より深く感謝致す」

 室中に響く大声で述べると、その儘暫く動かなかった。

「お、親父殿、面を上げてくだされい」

 慌てて近付いた利家がその手を取ると、漸く頭を上げた。

 その表情は晴れやかだった。

 利家には意外であった。武辺一徹、狷介不羈の親父殿が、勝手に戦場から離脱した自分を責めることすらせず、逆に謝辞を口にしようとは。

 いや、勝家自身にも意外なのだ。敗北を素直に受け入れた現在の心境が、此程に晴々としたものであろうとはーー。


 

 前年六月、織田信長が重臣明智光秀の謀反により本能寺に倒れると、羽柴秀吉は明智を早々と征伐した。

 さら清須城で開かれた信長遺臣の会合では、自ら擁立した信長嫡孫・三法師丸に織田家の家督を継がせることに成功し、遺臣団の中で頭一つ飛び抜けた存在感を示すに至った。

 他方、信長重臣の筆頭格であったはずの柴田勝家は、明智討伐の戦には遅れて加われなかった。清須でも、信長三男・信孝を推したが容れられず、発言力の低下を露呈した。

 徐々に孤立を深めていく勝家が、天下人への野望を隠さなくなった秀吉と衝突するのは、必然であった。

 秀吉軍が美濃・北伊勢へ侵攻し、勝家包囲網を敷くと、追い詰められた勝家は、天正十一年三月、まだ雪深い領国越前から出陣。

 両軍は北近江で約一ヶ月にわたり睨み合いを続けたが、四月二十日未明、柴田方の佐久間盛政が羽柴方の要害・大岩山砦に奇襲を仕掛けたことで膠着状態が破られた。

 この報に接した秀吉は、柴田方を翻弄しつつ、余呉湖南畔の賤ヶ岳に四万の兵を集結させ、北近江に布陣する柴田軍二万と対峙した。

 斯くして天正十一年四月二十日、決戦の時を迎えた。後にいう賤ヶ岳の戦いである。

 当初、攻防は一進一退を極めたが、突如、思わぬ事態が起きた。

 余呉湖北畔の茂山に布陣していた柴田軍の部将前田利家が、何の前触れもなく陣を放棄し、撤退を開始したのだ。

 利家隊の撤退を、柴田軍の多くの将兵は敗走と誤解したらしい。他の諸隊も撤退を開始したり、離脱者を出したりした。

 これにより、形勢は一気に羽柴方に傾き、遂に勝家の本隊も敗走を余儀なくされた。

 そして撤退の途上、勝家は前田利家の居城・府中城に立ち寄り、利家と対面したのであった。


 猛将・鬼柴田らしからぬ勝家の態度に利家が面食らっていると、勝家はおもむろに口を開いた。

「そもそも其許は羽柴筑前とは幼ともどち。断りなく陣を退いたのも、筑前の方に心が傾いた故であろう。早々に羽柴方へ降るがよい。もはや儂への義理立ては無用ぞ」

 真っ直ぐに利家の眼を見据える勝家に、利家は返す言葉がなかった。

 抑々、利家は勝家の家臣ではない。信長の直臣であり、勝家の麾下には与力として身を置いてきたに過ぎない。

 翻って同年輩の羽柴秀吉とは、若年より親交深く、まさに幼友達といえる間柄であった。

 主君信長亡きいま、勝家に義理立てして共に滅びるいわれは、ないといえばない。

 まして天下の趨勢が秀吉に傾きつつあるのは、誰の目にも明らかである。利家が秀吉方に寝返ったとして、誰が謗ることができようか。

 それでも此迄利家が勝家に与してきたのは、利家なりに勝家の徳を慕い、武将としての力量を惜しんだからだ。

「親父殿・・・」

 絶句する利家に、勝家はさらに言葉を継いだ。

「最後に一つ、頼み申したき儀あり」

 真剣な面持ちの勝家に、利家は威儀を正した。

「如何様なお頼みでも、お受け致しまする」

 勝家はにこりと笑んで云った。

「我ら主従に湯漬けを所望したい」


 府中城でささやかな酒食を供された勝家主従は、早々に立ち去り、夜道を駆けて居城である越前北ノ庄城に帰った。

 秀吉軍の追手は間近に迫っていた。

 翌二十二日には勝家自らが勧めたとおり、府中城の前田利家が秀吉方に投降。すると、こともあろうか秀吉は、当の利家に先鋒を命じ、全軍挙げて北ノ庄に攻め入った。


 二十三日夜、敵軍に包囲された北ノ庄城の中にあって、勝家は近臣を集め、労いの酒を振る舞った。

 酒宴は深更に及び、さながら戦勝祝いの如き活況を呈した。

「如何な負け戦とはいえ、ただでは死なぬぞ。敵の心胆寒からしめてやるわい」

「おう!世に聞こえた鬼柴田の家中らしゅう、派手な死に花咲かせてみしょうず」

 勝家に長年付き従い、幾多の戦場を共にした旧臣たちには、一片の悲壮感すらなかった。


 やがて宴が果て、家臣たちが持ち場に戻ると、勝家と妻・お市だけが残った。

 人も知るようにお市御寮人は、織田信長の実妹であり、かつては浅井長政の妻であった。

 長政との間に三人の娘をもうけたが、朝倉義景に与同して兄信長に離反した夫長政が、信長によって滅ぼされた為、長らく後家暮らしであった。

 勝家に嫁したのは、信長の死後。則ち、勝家とは、婚姻後わずか一年にも満たない夫婦であった。

 お市の手を取ると、勝家は言葉をかけた。

「お市さま、お子方を連れてお退きくだされ。如何な筑前とて、故右大臣さまの妹御を無碍には扱いますまい」

 勝家にとってお市は、妻である前に亡き主君の妹、いまだに臣下の如き礼を執り、あくまで丁寧な口調を崩さなかった。

 縋るような眼で見つめる勝家に、お市は決然たる眼差しを返した。

「浅井の殿が兄に誅されたとき、妾は恥辱を呑んで小谷から逃げ帰りました。あのときと同じ思いを繰り返すくらいなら、妾はここで、そなたとともに果つる道を選びまする」

「し、しかし」

 困惑する勝家に、お市は優しい笑みを浮かべた。

「よいのです。そなたに嫁したのも過去世の宿縁。夫とさだめをともにするのは妻の道。すべては、元より覚悟の上のこと」

「お市さま・・・」

 勝家の握っていた手に力が込められると、お市の手も強く握り返してきた。


 四月二十四日卯の刻(午前四時)頃、羽柴軍の総攻撃がはじまった。

 数にものをいわせた羽柴軍は、雨の如くに矢を射掛け、霰の如くに鉄砲を撃ち掛けた。

 対する柴田軍は、数こそわずかだが激戦を生き抜いてきた精兵揃い。敵の圧倒的な攻勢に能く耐えた。

 羽柴方が漸く城門を押し開いたのは、すでに正午近くになってからであった。


 羽柴軍の兵が敵将柴田勝家の姿を求めて城内を探索していた頃、羽柴方の陣中では、前田利家をはじめとする、勝家をよく知る者たちが秀吉を囲んでいた。勝家の助命を請うていたのだ。

 秀吉は面を赤くして怒鳴り散らした。

「ええい!ならぬといったらならぬ!各々方は、池辺に蛇を放つか?庭前に虎を飼うか?柴田修理を生かすとは、池辺に蛇を放ち、庭前に虎を飼うが如きものぞ!後顧の憂いは絶たねばならぬのじゃ」

 そこに、伝令が駆けつけた。

「畏れながら、申し上げます。只今、城内より火が放たれたとの由にございます」


 籠城戦において、守る側が城に火を放つとは、則ち敵味方すべての遺骸を焼き尽くし、大将の首を敵に穫らせじとせんが為。いわば敗戦処理の一環である。

 柴田方の兵が放った火の廻りは速く、城内の殆どが炎に包まれていた。越前の町々を見下ろしてきた九層建ての天守も例外でなく、いまやその上層にも紅蓮の炎が届かんとしていた。

 とはいえ地上には、天守を見上げる余裕のある者はいなかった。

 炎の中を、ある者は槍を交え、ある者は剣で斬り結び、ある者は逃げまどい、ある者は馬に踏まれ、ある者は火に巻かれ、城内はさながら地獄の巷と化していたのだ。

 いま、誰も見上げる者のないその天守の上層には、勝家の一族縁者たちが揃っていた。

 彼らは、口々に今生の別れを告げ合うと、あるいは己の腹を切り、あるいは互いに差し違え、一人また一人と果てていった。

 無論、その中に勝家とお市の姿もあった。

「いざ」

 勝家の呼び掛けにお市は無言で頷くと、静かに目を瞑り、懐剣を胸に突き刺した。同時に勝家の剣がお市の細い首に振り下ろされた。

 勝家は、手にしていた大刀を投げ捨て、膝を付くと、床に落ちたお市の首を拾い、その胸に掻き抱いた。

 当世随一の美姫と謳われたその相貌は、胴から離れ落ちてもなお、美しさを失っていなかった。いや、血の気を失って常より白いその肌は、むしろ生前より一層の凄愴

 その見上げた先、天守最上層の欄干に、まさしく柴田修理亮勝家が立っていた。

 妻の返り血を浴び、炎に照らされたその形相は、「鬼柴田」の渾名にふさわしい凄まじさであった。

「各々方、修理が腹の切り様見申して、後学につかまつり候え!」

 自らの切腹の仕方を後世の手本とせよ、というのである。

 地上で見つめる者たちに叫ぶと、脇差しを脾腹に突き立て、横一文字に割っ捌いた。

 さらに、脇差しを腹から抜いた勝家は、今度は鳩尾にそれを突き立て、縦一文字に斬り下ろした。

 自らの腹を十字に斬り裂いた勝家は、燃え盛る炎の中へと真っ逆様に落ちていった。


 天正十一年四月二十四日、柴田修理亮勝家、越前北ノ庄城に死す。

 焼け跡から見出された幾多の遺骸は、損傷著しいものばかりで、いずれが柴田勝家当人の遺骸であるか、終ぞ特定され得なかったという。

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